見出し画像

ローマは1日にしてならず。

仕事中、ある会社の役員や役職者に偉そうに講釈をたれ得意気になっていると、役員の方が「なるほど、いまイトーさんがおっしゃったのは、ローマは1日にしてならず、ということですね」とおっしゃった。とてもにこやかに。

ローマは1日にしてならず。

「大きな成果や偉大な事業は短期間で達成されるものではなく、長い時間と努力が必要である」という意味を持つことわざ。この表現は、目標達成には忍耐と時間が必要であることを教えてくれる。

うわぁ、とっても素晴らしい表現だなぁ、と思ったので「今度どこかで使わさせていただいてもよろしいですか?」と伺うと「ぜひぜひ」と言ってくれる。

それと同時に私は「あぁ、なんだか私は小物だな」と思った。「積み重ねてきた年数、くぐってきた修羅場の数、思考してきた時間、そのどれをとっても私は自己愛の強い小物だ」と思ってしまった。


なんだかそう感じたのだ。

少し考えてみると、私よりはるかに経験のある誰かがお話を聞いてくれるということの貴重さを考えたこともなかった。考えているふりをしていた。

なんだか訳知りな感じでゆっくりと喋り、地球ならびに太陽すらも自分を中心に回っているかのごとくな態度を取っていたのではないか、これまでの私は。


ローマは1日にしてならず。

なんだかそう感じたんだ。


noteだってスタエフだってそうだ。

人間性の素晴らしさであるとか、毎日書いてるから偉い、だとか、スタエフで誰かと話す場を提供しているから偉い、というような、それを言葉にしたことはないけれど、その端々からはたしかに滲み出てくるかのような、ある意味での不遜な態度を取っていないだろうか。


「ローマは1日にしてならず」と言っていた会社の役員さんが繰り返し言っていたのは「実るほどこうべを垂れる稲穂かな」であり、それも「素敵だな」と思うだけで、誰かにお辞儀をするときだって、本当に心からの感謝を持ってやっていただろうか、なんて考えたり。


そう考えてみると「ローマは1日にしてならず」ということわざは、人間の人格形成にも同じことが言える。偉大である必要はないけれど、真に心からだれかに感謝ができ、いまいる状況が当たり前ではなくたくさんの人の支えがあってのものなのだ、と本当に本当に芯を食って理解できるようになるまでには、きっと何年も何年もかかるんだ。


そんなことを考えながら商談を終え、なんだか自分が恥ずかしくなった。ぜんぜんまだまだじゃん、自分なんて。


って、思ったりするときもあるんだよね。


〈あとがき〉
なにか感謝みたいなものをパフォーマンス的にやっている自分がいるのではないか、と思えた日でした。外見や物言いが優れた人物ってのは現代においては多いのですが、本当の真心をもって事にあたっている人がどれだけいるかというと……。まだまだここからです。今日も最後までありがとうございました。

【関連】当たり前のことを当たり前にできるか

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?