自分の代わりはいくらでも。
午年の私が26歳で馬車ウマのように働いていたとき、誰かから言われた言葉で印象に残っているのは「自分の代わりはいくらでもいる」である。
会社を辞めて転職する、と思ったときになんとなく頭の中に芽生えるのは「自分がいなくなったら、残された人たちは大変そうだ」という考えだったりする。
この大変さを同僚や部下に残したまま、自分だけがハッピーになってもいいものか、みたいな感じ。
同じことが恋愛にも言える。恋人と別れたほうがいいなぁと思っている状況だったとして、これまた頭の中に思い浮かぶのは「この人には私しかいないんだから、別れを切り出すのはかわいそう」というものである。ズルズルいっちゃうやつだ。
こういった考え方は悪いものではない。
むしろ、素晴らしい思いやりのある考え方だ。
が、冒頭の「自分の代わりはいくらでもいる」という言葉を思い出して、かつそれを実感した経験があると、なんだか割り切れるようになる。どんどん割り切りまくれるようになる。でも、
割り切って考えないほうがいい場合もあって。
…
目が疲れていた。
一日中PCを見て、スマホを見て、朝と夜に少しだけ本を読む生活。それだけではない。普通に1日を過ごしていると、当然目を使う。目で物を見る。見る、見る、見る、見る。私たちはひたすら何かを見ている。
目が痛いなぁと思っていると、頭痛がしてくる。
頭の左側が痛くなってきて、なんだか調子が悪くなった気がする。風邪ではないことはわかっている。目を使いすぎているのだ。
夜、眠りにつく前に、妻にその話をする。
そう言うと妻はすべてをわかっているから、ひと言「目を使いすぎなんじゃない?」とサラッと言ってくる。
おぉ。なんだか名言が飛び出してくる予感がする。「たしかに目は2つしかないもんね」と言うと妻は続けて、
いや、たしかに。
と、いうわけだから、この日はすぐに眠った。
…
たしかに自分の代わりはいくらでもいるのだが、それは社会一般での話で、これを生物的な、尊厳的な、なにかもっと大きな倫理的な観点で見ると「自分の代わりは自分しかいない」に変わる。
他人のことを思いやる前に、自分をもう少しいたわってあげてもいいかもしれない。この社会には自分の代わりはいくらでもいるが、私たちひとりひとりにとっては、自分の代わりは自分しかいない。
もう少し、目を大事にしてあげようと思う。
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