少し昔の振り返り

自分がわからなくなることがある方は意外と多いのではないだろうか

本当の自分とは何なんだと考えてしまったり
私もそんなことを思っていた

私は頑張って人とコミニケーションを取ろうとしていた時期があった
(今もやっているが)
ところがやってみると、これが意外と厄介なのだ

というのもそれまでの私は
無愛想
無口

さらに本
そして受け身だったわけだ

それが人とコミニケーションを取ろうとするとどうなるか想像できるだろうか

自分が先に笑うようになり

人に話しかけることで
少しの能動性が身につき

言葉を話すため
クールが取り柄だった私のキャラは粉々に砕けた

良さそうに思えるだろう

ところがダメージもあった

なんと私は
「本当の自分が分からん」と悩むことになった

人は自分を演じていると時々聞くが
私もしっかりその罠にハマったわけだ

そんな状態になっても私は特に
自分が何かということについて考えたりはしなかった

何となく
時間が
自分を象ってくれる

そう感じていた

「自分」があり
それから外れ頑張ると
「自分」が少し変化する

その連続なんだと
そう思っていたのだ

ところが最近
「自分」は意外としっかりあるということに気づいた

一番「自分」が出るのは
嫌いなことについてな気がする

持論を先にのばしてもらうと
「自分」というしっかりとした芯を持たず生きていても
必要な時にしっかり飛び出してくるものがあると思うのだ

それは嫌だとか
少しつまらない言い方になるが
コッチとアッチどれがいいと選択肢を突きつけられたら
誰でも「アッチ」と「コッチ」の自分に分かれるわけだ
これはしっかりと芯がある

だけど「アッチ」も「コッチ」もどっちも良い人もいるかもしれない
その時は枠を広げてみたら面白い気がするのだ
例えば「アッチ」と「コッチ」どちらもやらないとか

選択を与えられた時は、自分で選ぶ必要がある
そう考えると芯があることは良いように聞こえる

何故なら、能動的な働きには選択がつきものだからだ
「私が人を助けるのは私がしたいから」
そんな人には芯があるように思える
「皆んながやっているから」
そんな人は芯がないように思えてしまう

私は人生に正しいことはあると思うのだ
だけど正しいことに意味を見出して初めて
その正しいことを認識することができる気がする

例えば数学の方程式には『意味』はない
こうしたら、こうなる
そういう関係があるだけだ
だけどその関係に意味を見つけたらそれは凄いことになる

関係性を見つけ出したい
それだけでも十分な意味になるのだ

そう考えると
「自分」が見つかるのは「自分」への意味が見つかってからなのではないだろうか

色んな人が「自分」は存在するらしいと言っている
だけど「自分」が方向性を持っているわけではないのだ
ただ存在する
それだけらしい

芯があるというのも同じだと思うのだ
芯があっても無くても
「芯」が持つ意味は変わらない
ただ存在するだけだ

これは全てのことに言える気がする
存在を認識できるのはそれに意味を見出してから
(これは順番がゴッちゃんになっていて、どちらが先かわからない)

芯が無く
辛いのは「芯」がないからではない
「芯」自体は意味を持たない
自分が「芯」に持たせていた意味が面倒くさかった

昔を振り返って少しそう思った










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