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NZ life|今日の複数形が人生だよ

ニュージーランド生活50日目。
天気あめ。気温18度。しずかさで満たされている。

今日はお休み。目が覚めると雨の音が聞こえた。

休みの日に雨が降っているとうれしい。どこかにお出かけする予定があるときはがっかりだけれど、特に何も決めていないときは「ああ、よかった、雨だ」と思う。


小学校の国語の時間に「晴耕雨読」という言葉を習って以来、私は「人生は晴耕雨読であるべきだ」とつよく信じているので、休みの日に雨が降るたび、理想の人生に一歩近づいたような気がして、心がぴょこっと跳ねる。


今日はお休みなので神様のカフェに行こう。雨がしとしとと降って肌寒いので、あたたかいコーヒーが必要だ。コーヒーを飲みながら本を読みたい。なんの本を読もうか。


ニュージーランドは夏だけれど、雨が降ると途端に秋のような空気になる。それがひどく気に入っている。昨日はカラッとした夏空で「つめたいラテが飲みたい」なんて思っていたのに。

雨足はつよく、風も吹き荒れているけれど、きっとカフェはお客さんでいっぱいだろう。ニュージーランドの人はほんとうにカフェが好きだから。

 

ああ、映画にするのもいいな。外は真っ暗で朝なのか昼なのか夜なのかもわからない天気の日は、部屋を暗くして、毛布をかぶって、映画を見るのがとても好き。

せっかく外国にいるんだもの。Netflixでジブリが観れるのだ。何か観ちゃおう、そうしよう。今日はお休みなので、私にはお休みを最高の日にする義務がある。




日本のみんなはたぶん仕事納めをしたようで、今日から年末年始のお休みに入るのだろう。年末年始などお構いなしで通常運転のこちらにしてみれば、うらやましい限り。

家族がみんなあちこちから集まって、こたつでゆっくりテレビでも見ながらご飯をつまんで、お酒を飲んで、お菓子もつまんで、くだらないことで笑って、まじめな話もしちゃって、そうやって年をひとつずつ終わらせていく。

去年の年末年始を思い出していたら、当たり前のように過ごしていた日々が途端に懐かしくなり、ものすごく抱きしめたくなった。


でもそうじゃない年末年始を今年は過ごすわけで。それが寂しいかと言われると、もちろん寂しいのだけれど、ある意味では実験的でもあり、自分の心がどう動くのか気になってもいる。

そうじゃない年末年始。つまりは家族のいない年末年始、ゆっくり過ごさない年末年始、こたつに入り浸らない年末年始、ご飯もお酒もお菓子もつままない年末年始、くだらないことで笑わない年末年始、まじめな話などひとつもしない年末年始。

そうじゃない年末年始を過ごすのは、後にも先にも今だけかもしれないし、もしかしたら、またやってくるのかもしれない。私の心はどう動くのだろう。


もちろん、ニュージーランドにも年末年始みたいなものはある。

バケーションを取って二週間旅行します、とか、仕事は一切しないで家族とのんびり過ごします、とか、そういう年末年始をニュージーランドで過ごす人もいる。

お店だって長期休暇に入っているところは入っているし、何も、みんながみんな通常運転ってわけじゃない。年末年始をゆったりと迎える人も、たくさんいるには違いない。


けれど、年末年始、という言葉にはどうしても「一年の終わりと始まり」以外の意味も含まれているのだと思ってしまう。

ちょっとだけ自堕落で、なのに溌剌とした人々の営みが、言葉には収まりきらずに少しだけ滲んでいる。

「普段はしちゃいけないこと」もなぜか許される気がするし、逆に「普段はしなくちゃいけないこと」をしなくても許される。


年末年始。忙しなく流れる時間とゆっくり流れる時間が同時にやってきては、おんぶしろ、抱っこしろと身体にまとわりつく。


テレビでお笑い芸人を見ていると、不意に忘れていた「くだらない出来事」を思い出して「ふふっ」と笑ったりする。

こたつに入って天井を眺めていると、今年いちばんの試練を思い出しては、ちょっと涙ぐんだりする。飲み込めずにつっかえていた日々が、こたつの温度で、みぞおちから溶けていく。

うまく乗り越えられたのか、あるいは乗り越えられなかったのかわからないけれど、こたつに入って天井を眺めているのなら、それはきっと、その壁を通り抜けた結果なので「がんばったね、自分」と褒めてあげる。



年末年始、という言葉を口にすると嬉しくなったり寂しくなったりするのは、その一年がかけがえのない日々で作られた証なのだろう。

ぎゅっと抱きしめたい日々もあれば、手のひらから溢れていった日々もある。

晴れの日もあれば、雨の日もある。晴耕雨読。晴れた日は畑を耕し、雨の日は読書をする。そのどちらもが生きていくには必要なこと。畑を耕し続けては心が疲弊してしまうし、本ばかり読んでいては身体が衰えてしまう。

晴れの日も雨の日も、その日が存在したことには変わりない。どちらもあったから、今日まで人生が続いているのだろう。

今日の複数形が、人生だね。
みなさんの今日がいいものでありますように。

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