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つぶやき:人の恋路 -LGBTQのこと-


今回は、ただのつぶやきが
けっこう長いつぶやきになりました。
▲2024/04/13題名に“-LGBTQのこと-”と加えました。

♡     ♡     ♡

“人の恋路を邪魔するやつは馬に蹴られて(犬に喰われて)・・・”

という江戸時代から伝わる素敵な言葉がある。
ご存知だろうか。
最後の“・・・”に続く、いなくなれ!と同義語な一文はパワーワードであり、ご時世的に控えめが宜しいようなので自粛をしてみた。

結局はこういう事なんだろうな、と冒頭の言葉に納得したのは、LGBTQ➕の事を、考えていた時のことだった。

そして、今回こんな風に止めどなく呟きたい気持ちになったきっかけは、会社でLGBTQ➕に対しての理解を啓蒙するチラシや匿名の認識(意識?)調査が行われたからだった。

▪️LGBTQは色んな性自認の略なのですが、詳しくはこちらをどうぞ🔗


まずわたしのLGBTQ➕への感覚をお伝えすると…
そもそも
・ 誰かを好きになること自体が特別
・ 好きになれるような誰かと出会える事がすでに奇跡

なので
・ 性別やセクシャリティーで、その素敵な事すらストレスになるのは健全じゃないし、悲しすぎる。
と思っています。
ましてや、お互いを必要としてパートナーシップを結べる関係を築けたのだとしたら、手放しで“おめでとう!”だねぇ、と思っています。



思うところ

人って違うのが当たり前なのに

色んなセクシャリティーがあったり
性別と性自認が違ったり
嗜好が様々だったり

このトピックについて
口出ししたくなるのは
なぜなのだろう

性嗜好という側面が目立つけど
大事なのはその先のリレーションシップについてだったり自分を肯定できる事、なのではないだろうか。
人として尊敬しあえたり、尊厳を守りあえたり、対等に会話ができたり、そう言う関係を作れるかどうかが1番の問題なんだと思う。須く。

普通に生きていても“普通”の感覚は
みんな違うし
それで良いんだと思う
(苦手な人はいるけど、それはきっとお互い様だったりする)
そもそも、無理強いとか犯罪的な要素がないプライベートな事を、祝福したり応援するならまだしも他人がジャッジしようとするのが変なのにね、と思う。

特に同性愛を“受け入れられない”という人は自身が性的な対象とされた時を想像したり、考えてしまうからではないかと思う。
多分、多くの人は好きじゃない人からの積極的なアプローチに対しては嫌悪してしまう。
かといって、よく考えてみてほしいのだ。
自分の目線で周りを見た時に、誰も彼もが性的な対象として映ることってあるのだろうか、お互い誰でも良い訳ではないし、求めたい相手はごく限られているのではないだろうか。
(誰でも良い人がもしいたら、また別のお話ですねん)

わたしのはなし①


実体験でいうと、同性である女性にお尻を掴まれたことがある。しかも高校生の時と専門学生の時の計2回で、それぞれ別の人にだった。
わたしのお尻を掴んで来たのは、先輩だったり年上の同級生だったけど、仲が程々に良かっただけに、びっくりしたのと、なんとも言えない嫌悪感とも言えないような、もんやりした気持ちになったものだった。
びっくりしていると、相手は「そこにお尻があったから」と、山登りだけが許されるような一言を名賜った。しかも2人とも、である。
それ以外には後にも先にも何もなかったけど、同性に可愛いと言われる事が多かった気がする。
自慢ではないし、何かで話すかもしれないけれど、トラウマワードでもあるので全く嬉しくなかった。どんなセクシャリティーであれ、勝手に人に触るのはやめてほしい。

わたしのはなし②

1番話せる異性の友達がカミングアウトしてくれた時、わたしはとても嬉しかった。
性自認についてのカミングアウトだったけれど、1番嬉しかったのは他の人に話せない内容をわたしを選んで打ち明けてくれた事だった。人として信頼していなければ話そうとすら思えない、大切な事をわたしに話してくれて、とても嬉しくて幸せな気持ちになった。その友達とは、その後さらに恋バナをし合って盛り上がったり、気兼ねなく色んな話が出来るようになり、友達としての関係性も深まったように思う。

その友達は、仲間と一緒に“当事者で作る考える会”(名前はもっとかわいい)みたいなものを立ち上げて、LGBTQを身近に感じたり一緒に考えるようなイベントを開催したりしてがんばっていた。
毎回、50人くらいは集まって、色んな話を聞いたり意見交換なんかもしてとても楽しかった。
仕事をしながらで忙しく、コロナ禍もあったりと、最近は難しいみたいだけど、とても素敵な企画だった。

わたしのはなし③

わたしが同性愛という性嗜好を初めて知ったのは、小学生の頃テレビのニュースでだった。
どこか海外のゲイカップルが、教会で結婚式を上げた様子が映し出されていた。
同性婚が認められて初めて式を上げたカップルは、こちらまで笑顔になって幸せな気持ちになるくらい、幸せでいっぱいの2人だったことを今でも鮮明に覚えている。

その時思ったのは、“大好きな人と一緒にいられる事ってなんて幸せなんだろう!”だった。
それ以来、全ての人が幸せでいてほしいと思うようになった。

だから性嗜好がどうのより、外野の意見より“当事者の幸せが1番だ”と、思っているのだ。

つらつらの先


LGBTQ➕に対しての理解を啓蒙するチラシが配られたうちの会社。

会社の世代構成的に、わたしよりも上(40代以上)の世代が多いため、まず先に「男らしさ・女らしさ」が当たり前だった世代がメイン。
そのため、そういうの関係ないみたいだよ、から始まらないと話が進まない様子が見てとれた。
逆に、若い世代は色んな人がいる事が前提になっている様子(主観です)。
(男らしさ、女らしさが好きなのは、個人的に良いと思っている、でも他人にそれを求めたり相手を変えようとするのは違うのでは?とおもうのです。自分が「◯◯◯であるべき」と、誰かに言われるのが好きなら別だけど!)

そんな会社の上の世代は、性的な話はそもそもタブー視されていたり、周りにカミングアウトしてる人も少なく、自分の性自認や性嗜好を誰かと話をした事すらない人も多いのかな、と想像する。

今も起こっている、命の危険も伴う差別の問題は、きっと別次元の話なんだと思う。
(もちろん、話す機会が無いだけで、理解のある方も沢山いるとは思っている)

知らなかっただけで、色んな人は今までもいたし、色んな性自認や嗜好をもってても誰も変じゃ無いし、自分の事も周りの事も否定しないで、と思う。

そしてその関係性が、相手を傷つけていない事が前提だとも思う。相手を伴う場合は須く、一方的にしたい事を押し付けてしまうのはただの暴力になってしまうから。
そこさえ踏まえていればオールオッケー(要成人)だと思のだ。

だからどうか、
人の恋路を邪魔するような、野暮なこたぁ言っちゃあいけねぇ。

なのである。
お後が宜しいようで。

fin


Aセクシャルなど、恋愛をそもそも選択しない方もいるのですが、今回は恋をする方を前提に思うままつぶやきまました。
漫画家の吉野朔実さんの作品「恋愛的瞬間」の中で友情と恋の境目は“気持ちの問題”であり、“境目はほぼ無い”、と聞いた時に納得した思い出があります。
本当に取り留めもない“長いつぶやき”になってしまいましたが、どんな人がいても良い!と、みんなで思えたらすごく生きやすくなると思うのです。
そんな願いを添えて…
ここまで読んでくださって、本当にありがとうございます!とっても嬉しいです!

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