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【14】日ソついに開戦~8月12日~

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その頃、掖河の防空壕は各部の努力により整然として当分の宿営にも堪えるものと思はれた。-が、戦況は更に悪化、下城子は敵との接点になり壕の壁に貼られた作戦の大地図には敵軍を示す赤い矢印が刻々西に向かって延びてきた。
部隊の編成装備の貧弱を知るわれわれは、口にこそ出さないが、不吉なものを感じずにいられない。
ソ連が先に侵入を企図した以上、彼の戦力を遥かに我より優勢なることは明白である。

綏陽の第124師団については、まもなく連絡の途が絶えた。
昭和19年9月作戦方針は、攻撃から一転して全面持久戦方策をとり、最悪の場合に横道河子-東京城の線で防衛、敵を阻止する作戦がうち出された。
独立重砲兵第5及び第8大隊の重砲は東京城方面より牡丹江をじっとにらんでいた。


8月11日夜は身辺整理のため交代で官舎に帰る事になった。
押し入れから日用品を背負袋につめこみ、おそらく再びここに戻る事はあるまいと、押し入れいっぱいの毛布と数多の服地をそれぞれ感慨深くながめた。
こうした間にも東方はるか砲声は続いている。
官舎に長居は無用と引き上げた。

8月12日。
動員室勤務者は交通統制班となりこれに当るべしとの命があり、両角少尉以下これに当り、炎天下の掖河十字路に立つ。

前進する部隊あり、後進の部隊もあり、所属部隊を失い後退する者、あるいは避難してくる在留邦人あり、糧秣輸送車、混乱する道路にあって部隊本部の位置の支持、欠食者に対する携帯口糧の支給をする。

牡丹江橋監視の憲兵隊の取締りは厳しいと言われ、そのため通行には許可証が必要で、両角少尉は理由により証明書を書いた。
鉄道はもはや不通となっていた。

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