おじいちゃんの【シベリア抑留記】

第二次世界大戦中、満州 関東軍第五軍司令部参謀に従軍していた 都築賢策(つづきけんさく…

おじいちゃんの【シベリア抑留記】

第二次世界大戦中、満州 関東軍第五軍司令部参謀に従軍していた 都築賢策(つづきけんさく)... 祖父が手書きで書いた抑留記を、孫が文字起こししてみました。

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はじめに

はじめまして。 都築由美(つづき ゆみ)と申します。 私の祖父の名前は 都築賢策 (つづき けんさく)。 祖父は私が2歳の時に他界しているため、ちゃんと会話をした記憶はありません。 周りの人からは「真面目」「おとなしい」と耳にしてきました。 私が覚えているのは、祖父が座っていたイスによじ登り、祖父が食べていたうどんを2本ほど貰った事。 定かではない記憶です。 そんな祖父は第二次世界大戦中、 関東軍第5軍 司令部参謀部動員室に従軍し 1940年11月20から満州にい

    • 【17】終戦~8月15日~燃えつつある家屋

      前回の記事はコチラ↓ 今回はコチラから。 8月15日。 砲声はますます近付いている。 正午一大音響と共に愛河に黒煙が冲した。 第17野兵器廠は部隊用の弾薬輸送を終り最後の挙に出たのであろう。・・・あの髭の榊原大尉の顔が目に浮かんだ。 我が方、軍用機1機もあるわけでなく、戦車は僅か数台、そのうち実際使用に堪えるもの2台、支援兵力は全くなく、必死に敵攻撃を阻止するよりほかないのである。 最早最後の覚悟をきめた。 午後5時命令あり。 司令部は現在地掖河を後退し、牡丹江を経

      • 【16】日ソついに開戦~8月14日

        前回の記事はコチラ↓ 今回はコチラから。 8月14日。 掖河の前方各地は敵の射程内に入った。 壕の内外は人の波で、台地には野砲が備えつけられ、われわれも最後は戦車肉迫攻撃をするよう準備に入った。 それが如何に追いつめられたとはいえ幼稚なものであり火薬も本来の肉迫攻撃用のものではない、如何に大和魂をもってするも龍車に向う蟷螂の斧で勝敗は明白である。 しかし、我が苦しい時は相手もまた苦しいとみなければならぬ。 両角少尉はこれを使うようにと言って軍刀と拳銃を私に渡した。 そ

        • 【15】日ソついに開戦~8月13日~関東軍総司令部の連絡もまた絶えた。

          前回の記事はコチラ↓ 今回はコチラから。 8月13日。 引き続き交通整理。 後退部隊又は兵が俄然多く、もはやわれわれの手には負えなくなってきた。 ムーリン方面の砲声。対するは野戦重砲兵第20連隊か。 軍直轄砲兵で斐徳より移駐した陸軍大佐 松村精ひきいる志気旺盛な精鋭部隊である。 昼頃から第135師団正面に敵戦車が出没、これにわが応酬があり戦車は一時後退したもののいつ攻撃してくるか分からぬ。 だが夜に入ってから戦況は緩慢となり通行する兵の姿も殆ど絶えた。 しかし代馬溝

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          【14】日ソついに開戦~8月12日~

          前回の記事はコチラ 今回はコチラから その頃、掖河の防空壕は各部の努力により整然として当分の宿営にも堪えるものと思はれた。-が、戦況は更に悪化、下城子は敵との接点になり壕の壁に貼られた作戦の大地図には敵軍を示す赤い矢印が刻々西に向かって延びてきた。 部隊の編成装備の貧弱を知るわれわれは、口にこそ出さないが、不吉なものを感じずにいられない。 ソ連が先に侵入を企図した以上、彼の戦力を遥かに我より優勢なることは明白である。 綏陽の第124師団については、まもなく連絡の途が絶え

          【14】日ソついに開戦~8月12日~

          【13】日ソついに開戦~牡丹江駅初の爆撃~

          前回の記事はコチラ 今回はコチラから ここ掖河東方10㎞の丘陵には部隊が処々にはりついている。 人馬の動きに注意しつつ、滻木地帯の中に第126師団司令の位置をつきとめる。 師団参謀の1人、高岡中佐が砲隊鏡を前に「やぁ、ご苦労。配備状況 良し。」と部隊をいちいち眼鏡に捕捉しながら示して配備完了を告げた。 丘陵の中の更に小突起に部隊はそれぞれ配備についている。 この時初めて爆音が聞こえ、東方より20機余りの爆撃機が現れた。 師団通信隊は急いで滻木の中に馬を分散した。 金

          【13】日ソついに開戦~牡丹江駅初の爆撃~

          【12】日ソついに開戦~8月11日~

          前回の記事はコチラ 今回はコチラから そうした間も戦況はわが方の不利に終った。 夜に入って防空壕で自家発電の灯りを頼りに作戦命令の印刷や壕内長期滞留のための諸施設の整備に当たった。 8月11日、月岡参謀から両角少尉に「本日中に部隊の配備調整」の命があり、同行することになった。 両角少尉は開戦と同時に原隊復帰の不能となった自動車下士官学生を動員して臨時自動車隊を掖河に編成し主として弾薬輸送のため第17野戦兵器廠へ派遣する事になった。 臨時自動車隊の貨物車1台を準備し、

          【12】日ソついに開戦~8月11日~

          【11】日ソついに開戦~簡単に絶たれた軍司令連絡~

          前回の記事はコチラ 今回はコチラから ソ連軍の侵入は幸か不幸か、師団長や軍直轄部隊長が、棭河集合時に起きたのである。 このため各団隊長は軍司令官より直接軍命令を受け、短時間で意思疎通や相互の協調ができたものと思はれる。 だが夜明けと共に東安爆撃の無線を最後にこの方面の連絡は簡単に絶たれてしまった。 虎林線は密山方面より侵入した敵のため平陽付近で遮断された。 文字通り陸の孤島と化した虎頭、荒木大尉の第15国境守備隊との連絡は絶え、ウスリー江を眼下に要塞重砲の巨砲の放列が

          【11】日ソついに開戦~簡単に絶たれた軍司令連絡~

          【10】日ソついに開戦~来たるべきもの遂に来る~

          前回の記事はコチラ 突然会議室の内扉が開き月岡参謀が現はれ、 ほの暗い動員室を一瞥すると 「これで全員だな。・・・いよいよ始まったわい。ソ連軍が只今、全満の国境を突破、わが方もこれに応戦している。それでこの司令部も爆撃を覚悟せにゃならぬ。司令部は現在地を動かぬ予定だから、重要書類は払暁を待って防空壕に移転、不要書類は焼却、午後の行動については別命する。」 といって他室へ向かった。 これだ!! 来たるべきもの遂に来る。 日ソ開戦。 血がおののいた。 いづれの時代か戦う宿

          【10】日ソついに開戦~来たるべきもの遂に来る~

          【9】日ソついに開戦

          前回の記事はコチラ。 今回はこちらから。 ついに日ソ開戦の日。 1945年 8月9日です。 こつこつと扉を叩く音に目をさまし電灯をつけていぶかしげに扉に近づいて開けると外は真っ暗、すると上等兵が顔の前に顔を出し、目を輝かせながら「非常呼集です、すぐ登庁してください。」と言うと足早に廊下を消えて行った。 柱に掛けた腕時計はまだ1時前、“非常呼集”…突差に緊張して身支度をする。 隣室の情報班の二関曹長が顔を出し「出来たら行こう」と声を掛けてくれた。 外に出た。小雨が顔に当

          【8】日ソ開戦前の状況~大笑いした日~

          前回はコチラ。 今回はここから。 厳格でおとなしい祖父が「大笑いした」原因とは・・・? ここ1週間官舎に帰る事は稀であった。 独身者ばかりの合同官舎に1部屋2名が割り当てられていた。 たまたま同寮の電報班の土井曹長は半月ほど出張のため留守で、その日の当番山田上等兵が机の上にキンセンカを飾り配給と言ってビール1本を運んできた。 栓をはらった処で改まって言うのには、実は今日、誤ってインクを畳の上にこぼしなかなか消えないので困ったと言う。 成程気付かなかったが毛布が敷いてある

          【8】日ソ開戦前の状況~大笑いした日~

          【7】日ソ開戦前の状況~身の回りで起きた事~

          前回はコチラ。 今回はここからです。 身の回りで起きた事が書かれています。 ちょうどその頃いろいろな事故がおきた。 参謀部庶務主任の矢追中尉の長男が亡くなり、遠藤さんの6歳になる長男が軍酒保付近の路上で交通事故による死亡、月岡参謀宅では生後まもない双生二児が死亡と、僅か1週間たらずの間に不幸が続き、夜半官舎への帰途遠藤さんは涙ぐんで「不幸はうちばかりではないし、然しよくこうも続いたものだ。」とつぶやく声に周りの者も共鳴し、みづからもまた重大な損失を被った様に感じた。

          【7】日ソ開戦前の状況~身の回りで起きた事~

          【6】日ソ開戦前の状況~司令部内の業務の繁閑~

          前回はコチラ 今回はここから。 司令部内部の業務詳細について書かれていました。 司令部内部においても業務の繁閑はある。 比較的平常の勤務ができるのは軍医部、法務部、副官部あたりであり、参謀部にあっても教育、図書、兵用地誌等であり、作戦、情報、兵站、動員の各室は毎日多忙を極めていた。 司令部では毎月の第1、第3日曜日は休日であり、その他の日曜日は半日休と定められていた。 夏の焼き付けるような1日が終わり陽が地平線の彼方に沈む頃、退庁する人の群が門外のアカシヤの林の中に

          【6】日ソ開戦前の状況~司令部内の業務の繁閑~

          【5】日ソ開戦前の状況~多忙を極める司令部

          前回はコチラ 今回はここから。 多忙を極める司令部の業務と、緊迫した日常の様子が垣間見れます。 われわれは、山積みされた書類を、時に食事も交代でとり、あるいは夜を徹して、定められた期日に、定められた兵力が、定められた場所に集結できるよう、兵器部・経理部とも連絡をとりつつ逐次処理していった。 後半夜2・3時間を、部屋に持ち込んだ毛布にくるまり仮眠することもあったが、それは緊迫した状況下にあってはむしろ生甲斐を感じるのであった。 指揮下部隊の将校は、司令部連絡の際 動員室

          【5】日ソ開戦前の状況~多忙を極める司令部

          【4】日ソ開戦前の状況~本土防衛至上命令~

          前回の記事はコチラ。 今回はここから。 参謀部に所属しているおじいちゃん達の職場についても書かれています。 参謀部動員勤務のわれわれは、東安以来多忙のため毎夜深夜まで庁舎内に閉じこまり十分な睡眠をとる事さえ出来ぬ情態におかれていた。 主任参謀は月岡少佐で、動員室には主任の両角少尉・私・藤戸軍曹・安信属官・西村/長井両伍長・遠藤属官・山田/坂口上等兵・さらに近藤/氏家/森山/後藤 4人の若い女子筆生の都合13名が勤務していた。 編成関係、将校下士官の掌握、人員及び馬匹に

          【4】日ソ開戦前の状況~本土防衛至上命令~

          【3】日ソ開戦前の状況~日ソ不可侵条約〜

          前回の記事はコチラ。 今回はここから。 日本の戦況が悪化していく様子が書かれています。 大東亜戦争も3年有半の長期にわたり、その諸戦におけるハワイ攻撃で米太平洋戦艦の全滅、香港、フィリッピン、マレー、シンガポール、スマトラ等 席巻した赫々たる戦果も、物量を恃む米軍の攻撃にその態勢は逆転し、北はアリューシャンのアッツ島、南はガタルカナルやブーゲンビルの島々に撤退を余儀なく、フィリッピンのレイテ島に逆上陸の米軍はフィリッピン方面軍山下奉文大将統いる皇軍の精鋭を随所に壊滅的打撃

          【3】日ソ開戦前の状況~日ソ不可侵条約〜