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脳内サンプリング4

まったく無関係な繋がりから新たな何かを築くというのはあまりにもリスキーで、手の届く範囲の外側の世界に繋がろうとするグローバル的な概念ってきっと元来なかったものだ。ただ「社会」という言葉からイメージさせるその枠組みの大きさが現代だとあまりにもデカすぎてピンとこないけど、社会とか経済ってもともとはもっと小さく小さく、手の届く範囲で成り立っていたものだと思う。農耕民族だろうが狩猟民族だろうが、もとは直接的に関わり合う人となりの心を豊かにするもの。
ただそれって、なんというか、現代だとただ地域をおこすというのともまた違くて、このインターネット社会のお陰でたとえ友達同士別々の地方にいたとしても「人となりの心を豊かにする」って事が結構成立する世の中だから、直接手を触れなくても、声なり言葉(文章)なりでその人から発せられるぬくもりみたいなものが伝達される。そこに心があたたかくなったりする。直接的なつながりと、間接的ではあるけど直接と同じくらいの強度を持ったつながり。

友達、という話で言うと、ある種のヴァイブスみたいなものさえ共通していれば、たとえ何年も連絡してなかろうが遠く離れていようが一瞬にしてその時間と距離をゼロ地点に戻すことの出来る魔法を持ってる。それって世代さえも関係なくて、前回の話の中で登場させた池田さんに初めて会って話したあの時も、出会う前までの時間や環境や距離をぜーんぶふっ飛ばしてゼロになった。これは池田さん自身が長年の経験や知識の中で磨きあげた成果って部分ももちろんあるだろうけど、お互いがお互いとも元々から持ち合わせていた、ビートたけしの言う「ガキの感性」みたいなものが共通していたからだと思う。
ヴァイブス。それをもっと紐解くと、自分の心の底から湧き上がる喜びというものにいかに敏感でいられるか、ということに尽きると思う。前回からの話の続きで申し訳ないけど、前回登場させたおかにーはそういう感性的な部分ってものに非常に鈍感で(笑)。わりと現代的というか若者的というか。
「それってつまりこうこうこういう事ですか」とか「もしまた失敗したらこういう風になる可能性をもってしてこうこうしたらそうなるかもしれませんよね」とか何かをやる前にあらかじめ状況を仮定してある種の思考パターンの中でものを言っていて、そこで池田さんとぼくは口を揃えて「そんなのどうだっていいんだよ、とりあえずやっちゃえばいいんだよ」と言ってたんだけど、そうやって生きてなにが楽しいんだろうか。余計なお世話ではあるんだけれども、実際とても苦しそう。前に話した「人生つまんないのがデフォルト」状態になっちゃってる。

とりあえず金稼いで、とか快適な部屋に住んで、とかこういう女性とお付き合いしたらこうで、とか趣味を見つけて、とかストレス溜まったらこういう対処をして、とかすべてパターン化しちゃうと、結局心ってどこにあるんだろう?心はみんなそれぞれの形で持ち合わせていて、何に感動して何に寂しさや悲しさを覚えるかなんてみんな違う。その心の反応みたいなものに気づく感性を身につけていると、まず自分の歩をどっちに進めたらいいのかってのがなんとなくわかる。その先で何かが変化したり状況が変わったらその場所でまた感じたり考えたらいい。結果はあとからついてくるもの。

故郷に帰るって話をするとだいたいみんな一言目に「仕事はどうすんの?」って言うんだけど、そんなの帰ってみなきゃわかんない。それに仕事やお金が優先順位の第一位じゃない。
そもそもの置かれている環境や場所や気候や風土が今と違うわけで、その場所で何を考え、何を感じるかは実際にその場所の土を踏みしめてみないとわからない。だからまず地元に帰ったら、その地域が、もっと言えばそこにあるひとつひとつの空間や居場所(スーパーや喫茶店や居酒屋)がいかにしてそこで生活をする人々に受け入れられているのかを知りたい。

ぼくの地元と同郷の人の中に、お笑いコンビ「蛙亭」のイワクラがいる。確かぼくよりふたつくらい歳下で、もちろん直接面識はないけれど、YouTubeの自身のチャンネルでよく地元を紹介しているので、あーここ高校の頃よく行ってたなあとか、この店まだあるんだ!とか懐かしかったりする。
その中でイワクラが地元に帰るとよく行く「オコタンペコ」という喫茶店があって、そこをめちゃくちゃおすすめしてて。もちろん名前も知ってるし、ぼくが通っていた高校のすぐ近くにあったんだけど、実は一度も行ったことがない。多分ぼくが子供の頃からあるはずなんだけど、そのお店が何故何十年もその地域に愛されて続けてこられたんだろうかとか、そういうのに興味がある。


「街」とか「県」とか「国」という規模になってくると今いちその地域にどんな人がいてその人々によって地域がどのように変容していくかってのが可視化しづらい。ただぼくが生まれ育った場所は村の小さな集落で、ぼくの知る頃のその集落は人口200人ちょっと、という世界で生きてきたので、誰がいて誰がいなくなって、それによってどういう変化や影響が生まれるのかが手に取るようにわかった。
ぼくが小学生の時に集落に2軒あった商店のうち一軒が地域にかかる橋の新設工事によって立ち退きを命ぜられ、程なくして潰れた。そこを経営していたおばちゃんもその家族も、その地域からいなくなった。その後どうしてるかも定かじゃない。

街が変わってそれ以降の時間が長くなると、それ以前の記憶がだんだん薄らいでいくってことはよくある。あれ、ここ前ってなにがあったんだっけ?とか。街の変化するスピードが早くなればなるほどそこに思い出は残らない。

街が便利に快適に、デカい道ぶっ通して交通の便が良くなって人の流れが変わって。ただそれによって失われた店や空間も確かにあって。
ひとつひとつの街の声は度外視で行政の勝手な方針や金の回り方で街が変化していくの程みっともないものはない。「街につくられる人」より絶対的に「人につくられる街」がいい。
管理されまくった世界で丸く収まって生きられる程人間は従順じゃないし、いくら拡大してもビットの組み合わせのようには人間は出来てなくて、ちゃんと無限の奥行きがあるし、人間は古来からDNAの中にしっかりと心のざわめきを持った動物であり獣だ。意識の世界ですべてをつくったところで結局どこかで無意識の不快や無意識の不満とぶつかり合う。「はい便利ですよね、はい快適ですよね、だから誰も文句は言いませんよね」てな感じで世界が構築されているので、その代わりに心の声をひらく場所がその地域地域にどこにも与えられてない。その余波がSNSに集中してる感じはある。

社会学者の宮台真司が「Twitterはクズ炙り出し装置」とか言ってて、ひでえこと言うなあ〜(笑)とか思ってたけど、地中で蠢く魑魅魍魎のような存在、一見すると目視出来ない存在が醜悪たる活字となってそこに立ち現れる。社会を見渡してもそれはまったく確認できなくて、というのも実際普段の生活の中ではなんとなく暗黙のルールで「心の声は出しちゃいけない」ってことになっちゃってて、そのせいでみんなカモフラージュして取り繕ってそれなりのテンプレート信号みたいなのを発して社会にうまく適応している。だから心の声は日常の中で一切見て取れない。むしろそうしないと生きれない世の中になっちゃってる。これはなかなかつらいです。だからその余波がTwitter(Xというと分かりづらいので言いません)やヤフコメなんかに浮き彫りになっちゃってて、ああいう誹謗中傷、ある物事に対して否定的な意見を攻撃的に放ってるように見えて、その矛先は全部「自分自身」に向けられてるって事に気づいてない。ぼくにはどんな誹謗中傷も要約すると「おれは苦しいんだよ!!寂しいんだよ!!うまく生きれないよ誰か助けてくれよチクショー!!」と言ってるようにしか見えない。

人間だって動物だから、心の声を封じ込めたらどこかで爆発するに決まってる。
だから自分の肉体も死んだらちゃんと土に還るんだなってとこにたまに救いを感じる。人間はプラスチックじゃないんだな。

ぼくは人生って結構「思い出づくり」だと思うんすよね。今つくってる新曲『ライクア脳内サンプリング』のMV編集作業もそうで、実際にその作業自体が脳内サンプリングになっちゃってる。過去の子供の時から現在までの写真を時系列バラバラで組み合わせて、こことここが繋がったりとか、この延長にこれがあってとか、パッパッと瞬間瞬間で共通性や非共通性がランダムに生まれて、それでいてちゃんとぜんぶ自分が見てきた風景っていう。その事実がもう全部思い出だし、写真見返すと「あっ、あの時のあそこの夕焼けだ!」とか結構覚えていたりするのに自分でも驚く。ほんとまるでタイムスリップしてそこに存在しているような感覚になる。風景も出会った人も自分を形成する一旦を担っている。これは誰にでも置き換えられることで、それぞれの脳内サンプリングをつくることが可能で、というのもその人の思い出の風景(もちろん忘れている風景も含めて)積み重ねて組み合わせるとめちゃくちゃ凄くて、それはまさに壮大な映画だしドキュメントだし、めちゃくちゃグッと来る。今回のは自分の思い出なので自分が主人公なんだけど、マジでさだまさしの曲じゃないけど、それぞれひとりひとりが主人公だし、その人の思い出の羅列が全然他人事じゃない感覚に絶対なると思うんですよね。別に大それた経験なんてしなくたって、それぞれがそれぞれ、何十年も生きてりゃ一筋縄じゃ行かない事なんていくらでもあるじゃないですか。
行きつけの商店が潰れた。というひとつの出来事に、「そこによく行ってて潰れて悲しい自分」と、「店をやむなく畳むことになった店主」と、「店に入った事はないけど毎日通り過ぎてた人」とか「そこに一度だけ水道の修理工事に来た業者の人」とか「お店の上にある電線に夕方になるととまるカラス」とか「その地域の山の山肌のてっぺんに位置する場所に立つナラの木から風に飛ばされて店の前に落ちた葉っぱ」とか「お店が更地になった後から生えて来たハコベやツユクサ」とか、いろーんな情景が交差してるんですよね。
人間もそれ以外も含めたひとつひとつ、そのすべてに物語があり風景があり思い出がある。

物事は「理解する」より「捉える」とか「つかむ」みたいな感覚のほうがわりとしっくり来ていて、事の起こりのそのわからなさをつかんだり捉えたりして言葉にしてみたいし音にしてみたい。そんな日々でござる。にんにん。

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