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ある子ども 01-05


01

木曜日の夕方、部屋に続く階段を昇る音が聞こえた。

私は鉢植えに水をやっているところだった。足音の主が大家だということはすぐに分かった。やけに乾いたサンダルの音が聞こえたからだ。私はジョウロを床に置いた。
ベルが鳴ってすぐに扉を開けると、やはり彼だった。痩せた老年の男は、赤いチェックシャツの上に紺のエプロンをしていた。白髪は短く剃ってあり、適度に日焼けしているので、老いたテニスプレイヤーのように見える。
「こんにちは」
私はドアの取手に寄りかかって言った。
「こんにちは。今お邪魔ではなかったかな」
大家ははにかむように言った。私は彼のことを気に入っていた。年齢の割に偉ぶる雰囲気が少ないからだ。
「全然大丈夫ですよ。あ、素敵なエプロンですね」
大家のエプロンにはワッペンが二つ付いていた。片方は黄緑色の木の実、もう一つはひよこのワッペンだった。二つは胸ポケットの上に縦に並んでいた。
「実はね、料理をしている途中だったんだ。いま下のオーブンでは、グラタンがぐつぐつ焼かれているよ」
「そう言われると、ちょっといい匂いがする気がしてくる」
大家と話すのは久しぶりだった。前に一度だけ、ここに引っ越してきたときにお昼を下で食べたことがあるだけだ。
「そのエプロン、お店をやっていた時のものですか?」
建物の一階は以前、喫茶店として使われていた。今は営業しておらず、大家が居住している。
「そうそう。このワッペンは、よく来ていた家族の娘さんからもらったものなんだ。懐かしいなあ」
そう言って大家は、右手の親指で埃をはらうようにワッペンを撫でた。どうしても、彼が自分の3倍くらい年を重ねている人間には見えない。

大家は白い紙袋を左手に持っていた。私がワッペンからそちらに視線を移すと、彼はそれを察知したように口を開いた。
「実は、ひとつお願いしたいことがあってね」
少しすまなそうな様子だ。
「今週の土曜日、もしよかったらこの袋を持って、ある子どものお見舞いに行ってくれないかな。子どもっていうのは、正確に言うと私の孫だね」
「お孫さんがいらっしゃるんですか」
「うん。それでね、毎週土曜日はその子のお見舞いに行くことにしているんだ。でも、日曜日のコンサートのリハーサルがあって、どうしても抜けられなさそうなんだ。今まではうまく都合をつけて抜けてきたんだけど、今回は編成の都合でうまくいかなそうなんだよ。コンサートに招待するから、代わりに行ってくれたりしないかな」
「土曜日は暇ですけれど、私が行ってもいいんですか。『お見舞い』ってことはお孫さん、病院とかにいらっしゃるんだろうし…。しかも、大家さんが来てくれるからお孫さんは嬉しいんじゃないかな?」
私は突然のお願いに驚いていた。だいいち、大家に孫がいるということも知らなかったのだ。大家は白髪を右手でぽりぽり掻きながら、ためらいがちな様子だ。
「奈々さんだからお願いしたいんだよね。あの子にぜひ会ってもらいたい」
「どういうことですか?」
「こういっては失礼かもしれないんだけど、奈々さんってちょっと変わったところがあるだろう。だからこそお願いしたいんだ。というのも、あの子は少し不思議な病気を持っていてね。いや、病気なのかよく分からないから病院にいるようなものだ…。まあとにかく、あなたならあの子の話を適当にあしらわないような気がするんだ」
参ったな。そう言われてしまうと断れないじゃないの。私は正直「変わっている」と言われたことが嬉しかった。だってそれは私が大事にしていることだから。
「わかりました。いいですよ。具体的に何をすればいいんでしょう?」
ポケットに入れた手を伸ばして、前かがみになって聞いてみた。
「診療所に行って、お医者様にこの差し入れを渡してほしい。これをお医者さんに見せれば、奈々さんが私の代わりってことが分かるよ。そしたら病室に通されるだろうから、あの子と話してあげて。帰りは適当な時間で構わないよ」
メモをそらんじるようにそこまで話すと、真っ白い紙袋を私に差し出した。どこかのデパートの紙袋みたいだ。撥水コーティングされた紙が使われていて、プラスチックの取手が付いている。中には立方体の箱と、薄桃色の封筒が二つ入っている。
「そうだ、あと住所はこちらね」
大家はワッペンが着けられたいたポケットから、折りたたまれた付箋を取り出した。坂の下のクリーニング屋の名前が上に印刷されていた。罫線を無視して、簡単な地図と住所が書いてあった。
「お礼のコンサートは翌日の日曜日。チケットは後で郵便受けに入れておくよ」
「楽しみにしていますね。あ、グラタン焦げますよ」
「そうだそうだ。じゃあ悪いけれど、よろしく。引き受けてくれてありがとう」
大家はそう言って階段を降りて行った。乾いたサンダルがぱたぱたと階段を降り、一階の扉を開く鈍い音が聞こえた。私は紙袋を持ったまま、バルコニー越しの海を見ていた。水平線の向こうの紺色は、ティッシュペーパーを水で濡らした時のようにこちらへと侵食してくる。見上げた空にうっすらと残る橙色がじわりと消えて、夜が丘に降り注がれていく。その動きが分かるような速度で迫ってきた。そのようにして木曜日の夕方は終わった。
 私は部屋に入ると、冷蔵庫の扉にメモを磁石で貼った。差し入れは生ものか分からなかったので、ひとまず冷蔵庫の上に置いておく。じょうろを片付け、簡単な夕食を作った。

***

02

土曜日は雨が降っていた。初夏にしては珍しい、身体の芯まで冷えるような大粒の雨だ。

もともと、この土地では雨が降ることが少ない。私は昨年の春からこの部屋に住んでいるが、今日のように雨で海が見えなかったことは数回しかない。坂の下方に見える海は、もやのような灰色のベールがかかっていた。バルコニー横の雨樋が、メトロノームみたいに小気味よい音を立てている。私はラジオを流しながら玄関を開け放し、その音をしばらく聞いていた。

時刻が朝10時を回るころ、出掛ける準備を済ませた。カーキ色のコットンジャケットと、同じ素材のスカートを履いた。どちらも軍隊の洋服を作り直した古着だ。いつも大学に行くときに使っているリュックサックに大家から貰った紙袋を丁寧に入れ、冷蔵庫のメモを胸ポケットに差し込んだ。そして黒ぶちの眼鏡をかけた。
レインブーツを履きながら部屋の中を見回した。鍵は掛けてあるし、元栓は切ってある。そうやって見回した部屋は、いつもと違って見える気がした。電気が切られた白くて四角い部屋は、青の時代のピカソの絵みたいな寂しさが滞留している。
どうして人がいない家は寂しそうに見えるんだろう?
カギを指で回しながら、ふとそう思った。自分がいない部屋は、妙に生活感が無い。信じていた友人に裏切られたときのような気分だ。
まあ、たぶん雨のせいだろう。ビニール傘を開いて、滑りそうな階段をゆっくり降りて行った。
 
街は空いていた。坂の下にある路電の停留所には、三人だけが待っていた。みな老人で、おそらくターミナル駅の方に買い物に行くのだろう。
バイパスの真ん中にある停留所だから、両側を車が絶え間なく通り過ぎていく。都市の方に向かっていくトラックの間を、小さな車が速度を上げて抜かしていく。停留所は透明な仕切りで囲われた部屋のようになっているから、水を切る音がくぐもって聞こえてくる。
私は傘の露を払うと、通り過ぎていく車をゆっくり見つめていた。それぞれの車がどこにいくのか考えたが、いまいち想像がつかなかった。それぞれが目的を持って走っていることは分かる。でもどんな人が乗っているのだろうか。たとえば今通り過ぎる青いトレーラーには。
そうしているうちに路面電車が来たので、最後に乗り込み、後ろの方に座った。路面電車はゆっくりと滑り出し、10分ほどでターミナル駅に到着した。そこでほとんどの乗客を降ろし、また動き出す。傘が連れてきた水滴が集まって、床が異常なくらいに光っているように見える。私の今日の目的地は終点の駅だった。曇りかけた窓ガラスに耳を当てると、雨がはじける音がする。
路電はターミナル駅の先を北西に走って行った。海岸線を離れ、だんだんと山間部に入って行く。次第に建物の背は低くなっていき、道の両側には林や田畑がぽつぽつと現れるようになってきた。半時間ほど座っていると、路電は登ってきた道を左折し、終点の停留所に到着した。どうやら路電の営業所が最後の停留所になっているようで、線路はそのまま車庫に伸びている。200メートルほど向こうまで続く敷地に、路電の車両と路線バスが何台も並んでいる。左手には二階建ての白い事務所が建っている。

私は路電から降り、停留所の雨よけの下に入った。雨は先ほどと同じ強さで降っていた。この施設は緩い上り坂の中腹にあり、おそらく山の入り口と言ったら伝わりやすいかもしれない。周囲はあまり手が付けられていない林で、深呼吸すると少し木の匂いがする。私は胸ポケットから地図を取り出した。どうやらこの停留所から、路線バスに乗り換えるらしい。 
隣に煙草を吸っている男性がいた。紺色の制服のようなものを着ているので、休憩中の運転手のようだった。年齢が自分と同じくらいに見えて少し驚いた。
運転手はこちらの視線に気が付いたかのように、尻のポケットからポーチのようなものを取り出し、煙草をねじって消した。
「すごい雨ですね。お出かけの日なのに、あいにくの天気だ」
運転手は雨粒を覗き込むようにして言った。
「ふだんはなかなか降らないのに、遠出する時に限って降るんですよね」
私は手に持った地図を空にすかすように持ち上げて笑った。運転手は地図に興味を持ったようだった。
「どこまで行くんですか」
「えっと、ここから乗り換えて、このバス停まで行くんです」
説明するよりも見せた方が早いと思い、クリーニング屋の名前が入ったメモを渡した。メモは湿気で柔らかくなっていた。彼は右手を腰に当ててそれを読んだ。
「なかなか珍しいですね。朝からこっちの方向に行く人は。習い事か何かわからないけれど、行くのは初めてですか?」
「初めてです。友達の家があります」
説明を省くための嘘を思いつくのは、私の特技かもしれない。
「そりゃあ良いですね。お姉さんが行く辺りは昔、別荘地で人気があった場所なんですよ。先輩がそう言っていました。今でもね、時々、普段は目にしないような高級な車とかが走っているのを見ますよ。そういう人が集まった自治会があって、その取り決めに従った配置で家が建っています。面白いですよ」
「おもしろい配置ですか?」
「まあ、たぶん行く途中に見えます」
そう彼は笑った。そして思い出したようにこちらを向き直した。
「そうだ、あまり遅くならないように。ターミナル駅の近くみたいに本数も多くないだろうし。雨の中で長く待つのは、素敵な洋服が濡れてしまってよくない」
それだけ言うと、運転手はベンチに置いてあった缶コーヒーを小脇に抱えて、四角い事務所に入って行った。私は背中を丸めて走っていく彼を見ていた。私と同じくらいの年齢なのに、よくいろんなことを知っているものだ。


5分くらいすると路線バスがやってきた。古くさいディーゼル車で、乗り込むと床板は木だった。聞いたこともない駅の名前が読み上げられ、ドアが勢いよく閉まった。まったく知らない場所に向かうバスだったので、子供の頃のように下腹部が少し痛くなった。
バスは営業所の敷地を出て左折し、緩やかな坂を昇り始める。時おり深い水たまりに入る低い音が鳴り、吊革が集団行動みたいに左右に揺れる。エンジンがため息をつくように唸る。がんばれ、とつい言いたくなるような音だった。
坂を上りきると左カーブがあり、再び下り坂になった。二車線の道路の左側は林で、右側には庭の広い住宅が立ち並んでいる。アメリカの家のように車寄せがあり、建物は奥まっている。
私は坂をしばらく進んだところでボタンを押した。バスはまるい看板のついた停留所で停止し、私は運賃を支払って降りた。傘を広げてリュックを背負い直すと、少し下ったところにあった横断歩道を渡った。ここは町と町を繋ぐ抜け道のようになっているらしく、時おり乗用車がかなりの速度で走っていく。周辺は暗く、中には小さなライトを点灯している車もあった。横断歩道を渡り、そのまま家と家の間の路地を進んだ。
路地はしばらく平坦で、両側には先ほどとほとんど同じつくりの家が並んでいる。運転手が言った面白い風景とはこのことだろうが、少し不気味に感じた。ほとんどの家には人の気配が無かったので、たぶん別荘なのだろう。雑草が塀のあちこちから伸びていた。
250メートルくらい進むと、路地の行き止まりに突き当たった。そこにも同じ形の家があったが、家の左側の塀の所に、私の部屋のベッドぐらいの幅のあぜ道があった。絶望的にぬかるんでいるその小径は、すぐ裏の山の中に伸びている。私はなるべく道の端に近く、水たまりが少ないところを進んでいった。ブーツで来て良かった。

家の横を過ぎると小径は林に入った。急に左に折れ、その先で右旋回しながら階段になっていた。階段は公園の通路のように濡れた木でできている。侵食が少ないところを見ると、わりと新しく作られたみたいだ。私は背の高い広葉樹に包まれ、雨の音が一段と大きく聞こえる。ここでも立ち止まって深呼吸した。身体の内壁に緑が入り込む、久しぶりの感覚。
ところどころ平坦な通路になっている木の階段を5~6分ほど進むと、右手にぬっと門が現れた。2メートルほどの高さの黒い門で、葉のような模様が施されている。階段はまだ続いているが、おそらくここが目的地だ。

門の向こうは開けた空間になっていて、手入れされた芝生に正方形の敷石が並んでいる。そして石を辿っていくと、洋館があるのがおぼろげながら見える。おそらくここに間違いない。門の横の白い壁についていたインターホンを鳴らした。ビーッ、という音が鳴り、沈黙が帰ってくる。
雨が傘を打つ音が目立って聞こえる。ビニール傘の表面で新しい粒が砕け、滑り落ちていく。この前読んだ何かに「生命の本質は運動にある」という言葉が書いてあった。雨を見ていると、なんとなくその人が言いたいことが分かる気がした。空から落下してくる滴は、わけもなくじっと見ていたいもののひとつだ。

円いボタンの下のスピーカーから、ものが擦れるような雑音が聞こえた。私は緊張した。
「こんにちは」
スピーカーに近づいて大家の名前と、自分が代理で来たことを早口で伝えた。スピーカーは意味ありげなノイズを鳴らすと、門のロックが解除される金属音がした。
思いのほか軽い門を押して、敷地に入った。

***

03

敷地はプロ野球の内野くらいの広さに見えた。林に囲まれた円形をしており、左奥に建物がある。右奥には中くらいの木が一本だけ生えていて、枝に手製のブランコがついている。雨の中では、相当昔に使い古されたものに見えた。

敷かれた石の上を歩いていく途中で、洋館のドアがそろりと開いた。一人の男性があわただしく出てきて傘を広げ、こちらへ速足で向かってきた。年齢は40歳くらい、くたびれた白衣を着た短髪の男だった。シャーロック・ホームズの仕事部屋にあるコート掛けに白衣をかけたみたいにひょろりとしている。白衣の下は白いワイシャツで、太めのグレースラックスを履いている。足元はサンダルで、濡れないようにひょこひょこと石の上を歩いているのだが、靴下のつま先にはしみができ始めていた。

彼とは敷石の途中で対面するかたちになった。彼は私と同じく眼鏡をかけていた。レンズを通した顔の輪郭が不自然に見えたから、入っている度がかなり強いのだろう。
彼は真剣な表情を浮かべていた。まるで緊急オペを目前に控えた医者のような顔だ。いや、彼はほんとうに医者なのだろう。
「こんにちは」
医者は心得ているかのように一度うなずき、踵を返してひょこひょこと石段を建物の方に戻り始めた。もっといろいろな説明が必要だと思っていたので、私は拍子抜けした。
立ち尽くしていた私を振り返って、医師こちらに来るように言った。いや、そのような表情を浮かべた。私は首をかしげてついて行った。ともかく、これ以上ずぶぬれになるのは嫌だったのだ。カーキの生地にはしみが沢山ついていた。

私は傘の滴を払って、洋館の中に入った。律儀に並べられたスリッパに履き替えると、白を基調とした、飾り気のない建物の中を進んだ。外から見ると洋館なのだが、内装は普通の家とあまり変わりなかった。廊下を進んだ右側にリビングがあり、医師はソファで待つように目くばせした。私はリュックから紙袋を取り出すと、忘れる前に彼に渡した。彼は頷いて、他の部屋にそれを持って行った。なんだろう。話してはいけない事情があるのだろうか。その子どもの病気と関連があるのかもしれない。

戻ってきた医者は「分かっているじゃないですか。そうです、喋っちゃいけないんです。ここではそういう決まりなんです」みたいな表情を浮かべた。「ちょっと待っていてくださいね。あのひとは二階に居ますから。呼んできます」
彼の表情は特に豊かではないし、どちらかというと不愛想だ。それでも、なぜか言いたいことはよく伝わってきた。白衣は階段を昇って行った。私はジャケットを脱いで、申し訳程度にばさばさと振った。ポケットに入れていた地図が落ちてきたが、湿ってボールペンの字がにじんでいる。まったく乾かなかったジャケットに仕方なく袖を通すと、濡れた布が二の腕に触れて気持ち悪い。
 

しかし静かな家だ。窓の外には雨で濁った庭が見える。向こうのほうに、さっき見たブランコ付きの木が見える。雨水がムンクの絵のように、ブランコのロープの形を歪めている。そこに動くものはなかった。ソファと窓の間にはガラステーブルが置かれており、いつの時代のものか分からない雑誌が二冊置かれていた。黒いスーツを来た男が、白い建物から身を乗り出している。いつか見た映画みたいだ。
それから部屋の中を改めて見回す。どこを見回しても、くだんの雑誌のように過ぎ去った過去の香りがする。玄関の金属の傘立てから、滴が垂れる音だけが規則的に聞こえる。さっき入ってきた水だけが、この場所で命を保っている。私はだんだん、自分の命のようなものがそぎ落とされていく錯覚に陥りそうになった。
階段を降りる音が聞こえたので振り向くと、やはり医者が立っていた。
「部屋まで来てと言っています」
普通の部屋の普通の階段を二階へ上がり、医者は左手のドアをノックした。中から返事は無かった。だけどドアの感じから、拒絶されている雰囲気はなかった。だから私はドアをゆっくりと開けてみた。医者は私に道を譲り、私はおそるおそる部屋の中に入った。
***

04

その男の子は部屋の右端のベッドから、すぐ横の窓の外を見つめていた。

こちらからは顔の左半分しか見えない。おそらく15歳くらいだ。髪は標準的な長さで、パーマがかかったようにちぢれている。横顔の鼻が特徴的で、鼻先にかけて半月のような曲線を小気味よく描いていた。緑色のパジャマから、とても白い肌が見える。
私が部屋に一歩入っていっても、彼は窓の外から視線を外さなかった。医師がそっとドアを閉める音がした。かたり。
「こんにちは」
私はその場には立ち止まって言った。部屋はほのかにかび臭いが、香水のような甘い香りも混じっている。10畳くらいで、私の部屋と同じくらいの広さだ。ドアから見てベッドは右奥にあり、対して左側には無数のハンガーラックが寄せられている。ハンガーラックはどれも大きさが異なっていたが、全てが重力を感じさせる分厚い布で覆われている。
「こんにちは」
男の子はふとこちらを見た。高い声だ。ベッドから半身を起こして、私のことをじっと見つめる。
「大家さんの代わりに来たよ。大家さんって言ってもわからないか」
「祖父ですね」
「そうそう。おじいさん」
大家と同じように、話しかけやすい印象だった。
「お天気悪いね」
ジャケットを両手ではたきながら言った。
「そうですね。もし晴れていたら、ここからたくさんのものが見えるのに」
窓の外には先ほどの庭が見える。二階からは角度の都合か、ブランコがうまく見えない。
「へえ。そうなのね。たとえばどんなもの?」
「ふだん目に見えないものとかも」
彼はそういって少し笑った。
「それはすばらしい。あなたにはそれを見る力があるんだね」
「まあ、いいことばかりじゃないですけど」
彼は目線をベッドサイドのテーブルに映した。円いテーブルには、いくつかのものが置いてあった。変わった形の四面体の脇に透明なポッドがあり、中に赤い液体が入っている。隣には中国の白磁のようなティーカップがあり、そこにはいちごの果肉が入った赤い液体が入っている。彼は前かがみで腕を伸ばし、逆さになっている同じデザインのカップをひっくり返した。そこに赤い液体がとぽとぽと注がれ、湯気が中空に消えていく。そしてテーブルの下の藤でできた引き出しから壺を取り出し、スプーンで真っ赤な果肉を液体に入れた。まるで何かの儀式みたいだった。
「どうぞ」
私はテーブルの近くまで歩いて行って、それを手に取った。目が醒めるようなすっぱい匂いが、眼鏡を曇らせた。あまり味はしなかったが、酸味が鼻の少し上を抜けて行く。
私はカップを持って少し移動し、窓の外を彼と一緒に眺めた。

雨が屋根を打つ音がかすかに聞こえる。それ以外の音はハンガーラックの分厚い覆いが吸い取ってしまったみたいだ。カップからのぼる湯気からも音が聞こえてしまいそうな、不思議な静けさ。
私は雨で歪んだ窓の外の木を見ていた。彼も屋外のどこかを見ていた。 
「ねえ、あなたは毎日何をして過ごしているの」
外を見たまま、そう訊いてみた。
「特に何もしていません。今日みたいな日は外に出ないで、頭の中で作品の手入れをしているんです」
「作品?」
彼の方を見た。彼もまた、窓の外を見つづけていた。私なんてそこに居ないかのように、とても自然に。
「そう、作品」
静かに口を動かした。
「作品って何?」
横顔に向けて尋ねる。
「近くの林の中に、美術品があるんです。野外展示、っていうのが適切なのかな。ロシアの芸術家が作ったものらしいです。冷戦の間に日本に来て作ったらしいから、ソビエトって言ったほうがいいですかね」
「うん」
「僕は治療の一環としてその作品のメンテナンスを担当しているんです。何もしないでベッドに寝ているだけより、そういう活動をしたほうが健康にも良いだろうという理由で」
「そうなんだね。そのお手入れは毎日しているの?」
「ええ。けれど、今日みたいな天気だとできないです。そういうときはこのレプリカを眺めながら、明日はどこをメンテナンスしようかと考えています」
紅茶が入ったポッドの横には、灰色の四面体があった。彼が片手でつかめるくらいの大きさで、鈍い灰色をしていた。正四面体ではなく、一方がやけに突き出ている。彼はそれを手の中で回して、仰向けになって天井に放った。いびつな四面体はスピンしながら天井に向かっていき、途中で思い出したかのように落下を始めた。
彼はそれを両手でキャッチすると、「お手入れはできませんが、せっかくだし見に行きますか?」と言った。
「ええ、もちろん」
私はそう答えた。
 
***

05

雨脚は強まっていた。
 
作品は整備された通路を進んだ先にあった。通路が終わり、人がすれ違えるくらいの幅のあぜ道をすこし進む。林と林が途切れた右側に、作品はこちらを向いて立っている。(ここがおそらくハイキングコースの始点だということに、私はこの時に気づいた)

作品は道行く人が見ることを想定されており、灰色の解説パネルが地面から70センチくらい生えている。パネルは途中でのけぞるように一回屈折していて、読みやすい角度になっている。私は傘を持っていない方の手でパネルの水を拭った。正確に言えば、表面に刻印された文字をなぞった。窪みは冷たさでしか関わりを持とうとしない。あまり役立つ情報は書いておらず、少年の適当な説明と大差なかった。

そして、当の作品は灰色の四面体だった。ベッド脇にあったレプリカをそのまま大きくしたものだった。四面体の一つの頂点が地面に刺さっている。左手側の頂点に達する直線だけが長く伸びている。原始民族が考案した槍の発射装置のようだ。こちらを向いている面を構成するもう一つの頂点はやや重心を後ろにしており、残る頂点は向こう側に隠れている。不気味さは一級品で、異国の処刑に使われる機械みたいだ。
「この地域にはいっぱいあるんです。こういう作品が」
雨粒をすり抜けて彼の声が届いた。雨はしとしとと山道を浸している。
私たちは山道からそれを眺めていたのだが、彼はおもむろに四面体の方へ向かった。赤い長靴が雑草を踏み分ける。私も跡を辿るように、ブーツで草の中を行軍する。
 ふたりは物体の前で立ち止まった。物体は私が思っていたよりずっと大きい。まるで何かの基準点のように、ものを吸いつけて離さない重厚感。固い表面は雨粒を容赦なく砕き、飲み干すかのように表面の模様に水を走らせる。
「たとえばね、この模様があるじゃないですか」
彼が触れたところには、二本の線が複雑に絡み合ったツタの模様が一面に彫られている。
「このモールドを掃除するのが、僕の仕事の一つ。溝に雑巾を入れて、手を滑らせていく。何度も何度も水を変えながら、隅々までそれを行うんです。この溝は生命にとって暮らしやすい場所みたいで、変な卵やナメクジがよく間にいるんです。僕はゴム手袋でそれを除けながら、何度もバケツの水を変えて掃除をする」
彼はおもむろにかがんだ。私も腰を低くして違う面を見ると、そこにはまた違う模様の線が複雑に彫られている。
「作品を維持するためには、そういった生命を犠牲にしないといけない。僕は作品を維持すると決めたから、こうしたことは仕方ないと割り切っています。血流を止めることはできないので」
ふと、その溝に指を滑らせてみた。表面に比べて、溝の中は粗い手触りをしている。
「まあ、それだけじゃないんですよ。この物体は直接的に、森の生物の命を奪っていくんです。夏のあいだは、定期的にここに水をかけに来ます。まるで墓石にそうするように。これは金属でできているのだから、夏は地獄の鉄板みたいになりますです。『蟹工船』か何かにそんな場面がありましたよね」
周りの木々は、物体に向いている面だけ色が薄くなっているような気がする。雨で湿った木々は、膿んだかさぶたのような顔を物体に向ける。
「それも光の反射でこうなるんです」
私は立ち尽くしていた。
「なぜ、こんなものがあることが、許されているの?」
「僕にも分からない。でも、僕はこれを維持していかなければいけないと感じているんだ。もしこの作品があなたを痛めつけて、場合によっては殺しても、僕はこの作品の手入れを行うと思う」
私は傘を左右に回した。自分の意志が現実に介入できる余地を探していたのだ。
「これって、大家さんはなんて言っているの」
「彼は僕に、何も言わないよ。ただ毎週来ては去っていくだけ」

森の中では時間が止まっていた。ただ動き続けるものだけが弱く、狙われる。生を持つ者は焼かれていく。雨がこの作品を朽ちさせるときはいつか来る。しかし、と私は思う。それまでに、いくつの「現在」が失われてしまうのか?例えば私が寿命を迎えるころ、この作品が完膚なきまでに破損することがあるかもしれない。しかし、どうだろう。それまでに、どれくらいの命が消えてしまうのだろうか。想像すると鼓動が早まった。
「あなたは止めることができないの?この治療法というか、手入れを」
「うん。僕はこの物体を手入れすることが、自分を確かめるたった一つの手段なんです。これを手入れしているときだけ、本を読んでいても、絵を書いていても消えない喉のつっかかりが消えるんです」
「私が見た所、この作品を取り巻く環境はだいぶよろしくない気がするんだけど」
傘の内側を見ながら、さりげなく言った。雨粒が砕けてビニールを伝う。
「だいいち、あの物体は森を殺しているし。それって道徳的に正しいのかしら」
「それは僕とは関係ない。そう思おうとしています」
被せるように彼は言った。雨粒を辛うじて通り抜けられるくらいの穏やかな口調だ。私は彼の方を向いた。
「でも、あなたは、自分の中にあの物体を飼っているじゃない。こういう表現は変なのかもしれないけれど…、あなたはこの物体に取りつかれているようにも見えるよ」
ブーツがぬかるんだ地面に沈んでいく。アウトソールの部分が見えないほどだ。
彼はしばらく黙っていた。雨が林と傘を打つ音が強くなる。解説パネルを垂れる水が、かんかんかんと小気味いい音を立てる。
「そういう見方も、あるかもしれないですね」
彼は右手を雨の中に伸ばし、直線に沿って撫でるように物体に触れた。私も左手を物体に置いた。金属の表面は大理石のように滑らかだった。そして冬の池に張る氷のような冷たさが、手の平から肘あたりまで伝わってきた。それに比べて手の甲に当たる雨粒は暖かく、何かがぶつかっている感覚しかない。
「中はどうなっているの?この物体」
私はそう聞いた。以外にも中が空洞のように感じられたからだ。太鼓のように、中に響く空間があるのかもしれない。
「何かの本が入っているらしいです。この四面体の上の面を取り付ける前に、芸術家が入れたらしい。僕は分からないし、今のところ知りたいとは思わない。いずれにせよ、なんらかの意味があるんでしょうね…」
彼はつまらなそうに言った。傘の下の目はレリーフを眺めているようだった。どちらかと言うと、先ほどレリーフの話をしていた時の方が楽しそうだった。
「なぜ中身を知りたいと思わないの。レリーフと関連があるかも知れないじゃない」
「たしかにそうです。でも僕にとっては意味がない。僕は今の仕事に充足しているんです。新しい意味を加えてかえって混乱させるようなのって、とても耐えられないな。それってすごく痛いんです。なんでもかんでも知ればいいってものじゃないです」
私は左手で表面を何度か叩いてみた。かすかに、本当にかすかに、中に空洞があるような気配がやはりした。彼はずっと線を撫でていた。ガウンの袖が濡れて濃くなっている。
「あなたが病から癒えてしまったらどうなるの。この作品と、あなたの中のこの作品は」
「この物体がある限り、僕が癒えることはない気がする。でもこの物体を無くしたら、僕は生きていけないでしょう」
彼は苦笑した。
「そういうのって、絶望的だね。右に動いても、左に動いても、だれかがやられちゃう」
「それが、僕なんですよ」
私は眼鏡を外し、ジャケットの胸の辺りでレンズを擦った。裸眼で見た物体は、窓の外に見えていたブランコと同じようにひしゃげて見えた。
眼鏡をかけ直したタイミングで、彼は後ろを振り返った。そこには傘をさした白衣が立っていた。
「そろそろ帰りましょう。冷えますよ」
白衣は私たちにそう伝送した。医師は四面体への関心を欠いているようで、一刻も早く建物に戻りたい素振りを見せた。
私たちはいのししの一団のように縮こまって、濡れた林の中を洋館に戻った。
時刻は14時を回っていた。

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