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長い手紙 その2 -信じることこそ-

1954年8月17日

拝啓 

お返事をありがとうございました。
あなたも私と同じように、自分なりの「考え」を作るのに前向きになったと聞き、少し嬉しくなりました。私は最近、それが人間にとって必要なことだと感じています。肝心なのは、それをいつでも推敲し、改訂する準備をしておくことです。その態度さえ忘れなければ、あなたはよき指針を手に入れられるでしょう。

今日はもっぱら仕事をしていました。朝から14時まで、東京から送られてきた新しいゲラを読みながら、赤入れをしました。窓際に座って作業をしていると、薄暗い部屋に注ぎ込んでくる日光と森の香りを、いつもより繊細に感じることができます。私の心も、少し爽やかな気分になりました。

今回と次回の手紙では「信じること」について書いていきたいと思います。なぜなら、私は思うのですが、私たちは何かを信じることに依存しているからです。そして、信じることの本質には、あきらかな危険も含まれています。私たちが人間いかなるものかを吟味する上で、そして、良く生きるとはどういうことかを顧みる上で、このことの考察は避けられないでしょう。

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さて、人間が人間であるゆえんは、「信じる」という行為に集約されているように感じます。あるいはこう言ってもいいかもしれません。信じることこそ、私たちに残された無茶のひとつだ、と。
数日前に送った手紙に、「私たちは複数の時間性の織として存在している」という、私の人間観をお伝えしました。今回の「信じる」という行為とその時間性の議論は、しっかりと結びついています。というのも、人間が断片的な時間を選ぶという行為が、つまりは「信じる」行為だと考えるからです。

立ち止って考えてみると、私たちは「信じる」という言葉を、非常に広範囲にわたって使用していることが分かります。人にお金を借りる時、自分が窮地に立たされた時、そして、宗教的な告白の時。信じるという言葉は、どこか人間臭く、なにかしら決意を感じさせる形で、大小さまざまな範囲に関わっています。

では、それらに共通することは何でしょうか。私はそれが、ある一つの思考の限定だと考えます。あるいはこう言うと、私が信じることに対して軽蔑的な態度を取っていると思われるかもしれません。しかし別に、そういうつもりではないのです。おそらく「信じる」と「考える」が、別の方向性を持っているのです。
ひとが何かを信じるというのは、選択肢の中から、有限個を選び取るという行為です。それはある種の決断でしょう。もし選択肢のすべてを「考える」ことにこだわるなら、あなたはそこに立ち止まるほかありません。その意味で、論理の階梯を飛ばして、どこかに立場を決めること、そうした性格が「信じる」行為にはあります。(フランスの哲学者アルベール・カミュの美しいエッセイ『シーシュポスの神話』には、このことが「哲学的自殺」という言葉で紹介されています)

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この「信じる」ことを巡って、ひとつ考えねばならないのが、歴史についてです。

人間は、何かを決定することによって、この世界を生きてきました。まるでカメラがピントを合わせるように、ぶれている世界をひとつに定める。このことによって、人間の文明は発達することができ、人は技術によって世界を操作できるようになりました。
この働きを、ドイツの法学者カール・シュミットは政治に対応させて「決断」と言いました。あるいは他にも、「編集」、「デザイン」という表し方ができるでしょう。いずれにせよ人間は、世界をそのメスで切り開いて、加工している。それは、おそらく間違いありません。

重要なのは、私たちの生活は、これらの決定により、あらかじめ方向づけがされているということです。私たちは軍国時代を経て、自由になったのでしょうか。アメリカの占領を経て、自由になったのでしょうか。私はそこで立ち止まってしまうのです。なぜなら、次のような疑問があるからです。
例えば、このホテルの椅子は、私が作業をするときの姿勢をある程度決めています。後ろに見えるベッドは、私が寝る時の姿勢を規定しています。さらに私の勤め先の編集社は、私の私生活を『可処分時間』として定義し、有限なものにしています。私は新しい憲法によって行動が規定されますし、列車の時刻表によって、実際的には移動の仕方も規定されます。さらに駅のコンコースでは、建築によって、私の歩く道のりがデザインされています。
このように、私は人間によってデザインされた世界の中に生きています。言い換えれば、あらかじめ他者によって決定されたものの中で、私が生きているということなのです。

これを先日の時間性の議論で言えば、ある時間の重なりを選ぶということになります。例えばキリスト教に入信する場合、あなたはカトリック・プロテスタント信者の時間の重なりを選んだと理解できるし、貯金をして日野のクルマを買うのだったら、自動車の先祖である「キュニョーの砲車」から、もっと遡れば人類が舟を使い出した時からの時間の連なりを選んだと考えることができます。
私たちは時間性を選び、それを合流するか、みずからの中に取り入れていきます。私は、一般的に「歴史」と呼ばれているものは、このような物なのかもしれないと思います。言い換えれば、私たちはみな歴史性を自らのなかに取り入れ続けている。(それが自分のなかで再現された複製なのか、時間そのものなのかはここでは問いません。哲学者のヘーゲルは前者で、数十年たてば後者の意見も出てくるでしょう。注1)

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今日の最後として、「信じる」ことの方向性について考えてみましょう。

上記の議論を踏まえると、信じるという行為は、何らかの時間性が自分の中に到来することを、肯定することなのかもしれません。つまり、ある時間に対し、「私の元にいてもいいんだよ」と言うことです。私はそれで、その信じた時間に居場所を与えます。あらかじめデザインされていた時間は、私の行動を何らかの形で規定します。たとえ話のようにすると、このように書くことができるでしょう。

しかし、これには強力な作用があります。何かを信じた結果、大変なことが起こるということは私たちが身をもって理解したところです。
だから、今世界の思想家たちがやっているように、あくまで個人で、信じることを健全なかたちで運用していくこと、それが、あの時代を経験した私たちには求められています。(3年前にE・ホッファーが『大衆運動』を、1941年と47年にはE・フロムが『自由からの逃走』『人間における自由』を刊行しています。いずれも優れた本で、この手紙もその論考を参考にしています)

さて、今日はこの辺りで終わりにします。
いかんせん自分の意見を改めて書くことがないので、分かりづらい箇所があったかもしれません。おおよそ次のようにまとめることができます。
①信じることは人間の本質のひとつで、思考を止めること。
②私たちは他者にデザインされた世界で生きている。
③ ②のなかで経過した時間を選び取り、それを自分の中に留めておくのが、信じること。
④それを個人で進める必要があるのではないか。

辺りはだいぶ日も落ちてきて、涼しさも増してきました。
旅館から少し歩くと喫茶店があるので、そこにゲラを持って行って、仕事の続きをしたいと思います。

敬具 

1954年8月17日
Y・K


訳者注1. G・ドゥルーズなどは、こちらの方向性の思考を展開したと思われる。

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