見出し画像

「恋」を正面切って哲学する。その匂い立つような言葉のほとばしり。学術書なのにとんでもなくスリリングでドキドキ。そのワケは。

『なぜ、私たちは恋をして生きるのか』

宮野真生子(ナカニシヤ出版) 

著者の切実な思いが現れた学術書

 最初、なんともベタなタイトルの本だと思いました。これではちょっと部数が出ないんじゃないかと。でも、戦前からの著名本、九鬼周造の『いきの構造』を採り上げながら、とあるから読んでみたら、なぜ出版社がこのタイトルにしたのかがわかった気がしました。

 副題に『「出会い」と「恋愛」の近代日本精神史』とあって、れっきとした学術書の体裁をしているのだけど、時々、著者の切実な思いがあふれる表現が唐突に現れます。

 いや、装いはあくまで学術風。力を込めてそうしているが、それ故に透けて見える、匂い立つような言葉のほとばしり。これが突如始まるもんだから、なんともエロチックでドキドキでスリリング。だから、むしろ副題っぽいほうをタイトルに格上げしたんだと思います。

 かつて、正統な国語辞典なのに編者の個人的な嗜好が出すぎだと「この国語辞典、なんだか変」と、ツッコミを入れまくった快著、赤瀬川源平の『新解さんの謎』を思い出しました。

「恋」を正面切って哲学していく。

 さて、この本が数多ある「恋愛論」本の一つにならないのは、もちろんそれだけではありません。
 哲学者である宮野真生子は、恋を正面切って哲学していく。今はやりの男女脳の違いという生理学でもなく、ジェンダー的にどうだという社会学でもない。

 自分一人で解決するしかないという「切実」な問題(個人の苦悩)というのは、実は誰しも思い悩んできた人類「普遍」の悩みであるとわかったとたん、切実度が下がり少しは苦しみがラクになる。
 例えば、「死ぬ」ということは自分の問題ではありますが、人類すべての苦悩でもあります。
 哲学も一応「科学」。普遍の原理を追究します。
 恋感情も科学で説明していくと、普遍度が上がる分、切実度が下がり、ラクになるはず。

 しかし、恋の悩みにおいては、これは困るんじゃないか?

 ラクになるどころか、何か一気に自分が薄められてしまう気がします。恋の悩みが他の悩みと根本的に違うのは、1対1で「他と違う自分」の価値が相手に認められるかどうか、が唯一の核心という点なのですから。

文学と哲学をいったりきたりする。

 文学という手法では、この自分だけの切実な問題と人類普遍の問題という相反するものを、一瞬、そのまま繋げる。文学を読んで救われる思いになるのは、「自分」が薄まることなく、「人類」とつながれるから。

 哲学も文学と同様、使うのは言葉だけ。ここに、文学の真骨頂である「個人の切実さの救い上げ」が入り込む余地があります。

 あくまで「個人」を排除しようとするのが哲学界隈の確固とした伝統ですが、戦前の哲学者、九鬼周造はまったく違いました。ひょうひょうと、自分自身の切実さ(個人の苦悩)をベースに哲学を構築したところが異端児なのでした。
 普遍を求める哲学畑に、個の立場である文学を持ち込もうと挑んだのです。
 宮野真生子も、九鬼周造と同じようなことをやろうとしたんじゃないか?

 個人のものでしかない「切実さ」を「普遍」のものに、一瞬ではなく定着させようとした野心。

 宮野真生子は、この本を書いているときはすでに病魔に冒されていて、5年後の2019年、42歳で亡くなってしまう。
 これを思えば、横溢する切実な表現に何とも言えない気持ちになります。

(関連記事)


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?