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ブンガクって逃避? それを聞き捨てならない人、それが当たり前の人。

人々の最後列で丹念に落とし物を拾っていく

 いつだったか作家の高橋源一郎さんが講演で、「文学は逃避だ」と、苦笑しつつあきらめ顔で叫んでいたのを聞いて、ぼくは哀しい気持ちが湧き起こりながらも、同時に「やっぱりな」という思いも抑えることができませんでした。
 もちろん、高橋さんはそこに積極的な意義を込めてはいるわけです。

 作家の小川洋子さんも、文学というのはかつて生きた人々の最後列にいて落としものを拾っていくような、そんな影の存在でしかないといいます。
 でも、本人も気づかない落としものを丹念に拾って形にして残していく、そんなことが唯一できるのが文学なのだと語っていました。
     これにはとっても救われた気持ちになりました。

 ただ、なるほど、文学は未来に向かって何か事を成そうとするのではなく、過去を語るだけ。なんとも肩身の狭い思いは拭いきれない。
    だのに、人は文学、つまり物語を必要とする。
 自分の生が無意味だなんてことに人はとても耐えられない。
 ふと気づけばいつもつかみ損ねそうになる自分の居場所を、流れから「固定」して確かめたい。
 物語への欲望はそんな切実なあがきなんだという気がします。

人生は芸術をするためにある

 そんな葛藤をよそに、
「人生は芸術をするためにある」
と豪語して突き進む人たちがいます。
    それが、芸術大国を自認するフランスの人々。小川洋子さん作品を最初に翻訳出版した国でもあります。

 彼らは仕事なんて芸術するために仕方なくやるものだ、と平気で口にします。
 だから経済は強力とは言えず、軍隊だってそう。
 フランス海軍など、可愛らしすぎる凝ったセーラー姿にばかり注目が集まる始末。

イベント用じゃない本物の軍服。

 俺たちは弱い。
 これをいちばんよく知っているのも彼ら自身。といって決して敗北主義なのではありません。
 ナチスドイツに占領されたことを忘れない、誇り高い人たち。

 国歌にはこれでもかと血生臭く敵を打ち破る言葉があふれ、周りがどう言おうと世界最大の原発大国の道を手放さないし、強大な米国のやることにはひとまずなんでも反対する。
 英語を話せる人が欧州の中でも極端に少ない。というか、話せても話せないふりをする。
 悪く言えばひねくれている。
 だから、その芸術は、シニカルな風刺テイストが伝統にもなります。

皮肉屋さんの巨匠、フローベール 

 その風刺精神を文学作品にまで高めたのが、写実主義を開いたフランス文学の巨匠ギュスターヴ・フローベール(1821-1880)。

 彼は要するに、皮肉屋さん。
    作家活動の初期は彼もロマン主義一辺倒。
 どこにいるんだか、ヒーロー、ヒロインを自分に置き換えて読者を陶酔させるのがロマン主義文学。
    彼自身得意としながらも、その読者迎合ぶりに次第にイライラを募らせていきます。

 そこで、ヨノナカほんまはこうやろ、とシニカル・アイロニカル根性を大爆発させて書いたのが、不倫モノの元祖『ボヴァリー夫人』。

 あまりに表現がリアルだったから、夫人は実在するに違いないと、女性の正体を明らかにするよう裁判で追及され、「ボヴァリー夫人は私だ」と正直に言ったことが、後々にまでフローベールを有名にしてくれました。

 その皮肉屋さんの真骨頂の作品が、『紋切型辞典』(未完)。

顔つきに「皮肉屋さん」が出ちゃってます

 ―――これって「フランス革命のもたらした変容より重要」な事態が人類社会に現れていたことを示す、稀有な奇書なんじゃないか。
 そう鼻息荒く、意を決してこの『紋切型辞典』の考察に取り組んだのが、フランス文学者の蓮實重彦さんによる『物語批判序説』(1990年)。

 民主主義的平等などの価値を奉ずる「近代」が一気に進展の道に入るフランス革命以降、現代にいたるまで近代というものが貫く、ある「恥ずかしい」原理について、彼独特の、熱いんだか冷たいんだかよくわからない、持って回った表現で語っていきます。

 どんな種類の人間によっても間違いなく容認されるだろう考え方だけが盛り込まれた単語集。あるいは、未知のものではなく、既知の概念としか出会うことのないごく退屈な定義集。あたかも人類そのものであり、ページをめくるごとに、人類が人類自身をそこに再確認しうるような辞典。

 その各項目に集められているのは、世の中とうまく折り合いをつけた大多数の人間が、どうしても他人とうまくやって行けそうもないごく限られた少数者に対して、その居心地の悪い思いをとり除くにはただこうオウムがえしに口にすればそれでよいと保証するたぐいの語彙ばかり。

蓮實重彦『物語批判序説』1990年

 いったい、フローベールはなんのためにこの役立たずな辞典を作ろうと思ったのか。
 恋人に宛てた手紙の中で彼は『紋切型辞典』構想について、激しい心のうちを打ち明けています。

 ぼくは、誰からも容認されてきたすべてのことがらを、歴史的な現実に照らし合わせて賞賛し、多数派がつねに正しく、少数派がつねに誤っていると判断されてきた事実を示そうと思う。
 偉大な人物の全員を阿呆どもに、殉教者の全員を死刑執行人どもに生贄として捧げ、それを極度に過激な、火花の散るような文体で実践してみようというのです。
 従って、文学については、凡庸なものは誰にでも理解しうるが故にこれのみが正しく、その結果、あらゆる種類の独自性は危険で馬鹿げたものとして辱めてやる必要がある、ということを立証したいのです。

恋人ルイーズ・コレに宛てた手紙 1852年12月16日付

 いやまあ、怒ってはる。
 なにしろ、
「正しいから多数になるのではない。多数だから、正しくなるのだ」
 とまで言われると、ん?となります。
    でも次の瞬間、なんとなくもやもやと思い当たるような感じもしてくるので、うっちゃっておけません。
 
 さらには、この人のなんともアイロニカルな攻撃性は、次のような文言に強烈に現れています。

 この書物のはじめから終わりまで、ぼく自身がつくりあげた言葉は一つとして挿入されることなく、ひとたびこれを読んでしまうや、ここにある文句をうっかり洩らしてしまいはせぬかと恐ろしくなり、誰ももう口がきけなくなるようにしなければなりません。

深い絶望の中ではナルシズムだけが頼り

 蓮實さんの言葉で言えば、
 「難儀して作り上げた機械が、いざ完成したとなると、自分自身をもむさぼり食ってしまうような装置。攻撃としては解読されがたい攻撃法の開発。この辞典はそんな機能が夢見られている」

 フローベールはそんな荒唐無稽な装置を一生懸命作ろうとしていました。
 自分を守りながら、攻撃欲は満足させたい。
 なにか怨念があって、それを晴らしたい。
 それに役立つ便利な逃避装置。

 源一郎さんがいう「文学は逃避」というのは、のっぴきならない現実はどうにも勝ち目はないから、ひとまず緊急避難的に高台に逃げて、そこから撃ってやろうって、こと。
 その高台っていうのは、人はみな裸だが、自分だけ服を着ているという、なにか、安心感とナルシズムをもたらしてくれる場所。

 ただ、逃避というのはなんとも「卑怯」感が拭えません。
 現実から逃避しながら「逃避」という言葉からも逃避したい、とも思えてくる。

 絶望の中ではナルシズムだけが頼り。
 逃避の醜さがイヤで、負けを承知で現実に真正面からぶち当たろうとした、純粋で生真面目で心優しくてナルシストの三島由紀夫なんて人を産んだ我が国です。
 逃避というのは聞き捨てならない。

 でも、彼には気の毒だけれど、身が引き締まると同時に、正直言って息がつまる気もします。
 
 件のフランス人にとっては、「卑怯」「逃避」? なんでそうなるの? 何が問題なの? となる。
 だって、彼らにとって人生の目的は、あっさりと、「芸術」なのだから。

 欧州大陸は果たして民族の対立と殺し合いの歴史。島国日本と異なって、共同体への深い絶望が積み重なっている。
 フランスの人々にあるのは、その絶望を通り抜けた末の、妙な屈折のない、諦観めいた芸術感。
 彼らは恐るべき孤独の中にいるのです。

 フランス人の作るものに突き抜けたような自由さを感じる理由は、彼らラテン系の陽気さの故とばかりも言えないなあと思います。

蓮實重彦『物語批判序説』1990年

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