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華老鏡月、花を生ける(抜粋8)

                   ( qimono 様 画像提供 )

皆様、お元気でお過ごしでしょうか?
摩訶不思議な気象の中で暮らしも安泰とは言い難い
昨今ですが、せめて空想の中で自由を満喫できれば
幸いに存じます。

さて、夢幻小説『音庭に咲く蝉々』を断片的に切り取り、
ドラマシリーズ風にお届けしております。

今回はいよいよ音楽祭の夢幻空間の中に、ケイの曽祖父・
時原鏡月が姿を現わします。


          ★   ★   ★

 もう一つの異変が起こっていたにも拘らず、それに気づいた者は独りもいなかった。ギターを抱き込んで演奏するケイの遥か頭上に………、もうひとりの時原敬一が浮遊していた!
 
 ドッペルゲンガー?
 天空に静止する彼は、見たこともない美しい民族衣装を纏い、繊細な装飾が刻まれた古代楽器を抱きかかえていた。一見、それは正倉院宝物の螺鈿紫壇五絃琵琶によく似ていたが、撥面に装飾された幻獣と聖人の姿は、いまだかつて目にしたこともない極めて夢幻的な意匠だった。
 ケイの分身は天空に静止したまま、遠い彼方の地平線を見つめていた。
 そして、彼の背中には、青白く透きとおる大きな羽が開かれた。それは羽化したばかりの蝉の羽と全く同じように、濡れたような艶を放ち、微風を受け流し震えていた。
 
 ・・・・ 帰命したてまつる あまねき諸仏に ・・・・
  
 ここは何次元だろうか。四次元か、五次元か、六次元か………………。
 通常の三次元~四次元空間でないことは、先程から目の前を通り過ぎていく海草のような亡霊たちの姿を見れば判る。ねじまがった時間軸のカーテンから、様々な時代の人々が無秩序に溢れ出て、漂泊しつつ霧のように消えていく。
 
 透明な群衆………………。和歌を詠む十二単衣の女たち、色調で階層を示す凛々しい公家たち、勇ましい鷹狩りの男たち、薬草を摘む女たち、蹴鞠を楽しむ貴族と武官、疾風のごとき流鏑馬の足音、経文を唱える高僧、琵琶を奏でる楽師、まだあどけない小舎人、往来を行く庶民、祭りに熱狂する農民、藁草履の子供たち、風のように走り去る非蔵人………………。
 透明な群衆が魚影のように流されていく。
 
 ここは何処だろうか・・・・? 阿頼耶識の次元なのか・・・・?
 


geralt 様 画像提供

 遠い昔、ここへ来たことがある。見覚えのある風景だった。川のように見えたが、沼か湖にも見える。それとも海?透明な密林の向こうに、透明な霊水の世界が広がっていた。
 
 水辺の風景に、ひとりの老人が結跏趺坐を組み瞑想していた。
 ケイと同じような古代正装で登場したその老人は、いったん正座に組み直してから、右ひざを立て、水辺の湿った砂地を整え、そこに美しい花木・草花を生けはじめた。一掬いの霊水。老人の頭部には宝冠が光輝き、瓔珞、耳飾り、腕輪もまた同じ光を宿していた。背後には二重の光輪が見えた。
 不思議な光景だった。老人の腕は紛れもなく二本であるのに、背後に映し出された影はなぜか六本に見えた。それは石夢野の中庭に祀られた如意輪観音に酷似していた。
 
 ………………… 山川草木悉有仏性 …………………
 
 その瞑想的な横顔から、彼が研ぎ澄まされた境地に住む天才華人・時原鏡月であることは明らかだった。時原家に招かれたあの日、薄暗い和館の中に静謐な肖像画が掛けられていたことを、今、唐突に僕は思い出した。その時は何気なく通り過ぎてしまったが、その人物こそ、ケイの曾祖父・華僧鏡月であったのだ。その人が、今、ここにいる。華を生けている!
 
 ステージの空中に静止していたケイの分身は、時を得て、音もなく移動しはじめた。青白く透きとおる羽を風に晒し、氷面を滑るように抵抗なく進むと、仮死状態の群衆の頭上を越えて、老人が花木・草花を生ける水辺の風景に近づいた。
 

 鏡月と思われる翁の傍らに、もう一人の陰翳が浮かび上がった。


MonkVadim 様 画像提供



 僧侶風の人物だった。炙り出しのごとく、徐々にその姿が鮮明になる。墨染の袍裳は後頭部の高い僧綱襟をかたどり、そこへ明褐色の五条の法衣。左手には霊験の数珠が………………。
 思慮深い切れ長の眼差し・・・、自然に長く伸びた眉毛・・・・、この人相は古典史料の肖像で見かけた記憶がある。
 平安時代末期の和歌僧・・・・、まさか、晩年の西行法師なのか?たしかにMOA美術館所蔵の西行肖像掛軸から、そのまま跳び出してきたような人物だった。
 僧侶はおもむろに懐紙を取り出すと、高貴な毛筆の先をさらさらと滑らせていく………………。
 
   仏には桜の花をたてまつれ わが後の世を人とぶらはば 
 
 すると、琥珀色に染め上げられた空間に、ケイの姿を追って、どこからともなく一匹の蝉の抜殻が吹き飛ばされてきた。空蝉はぐるぐる旋回しながらケイに近寄り、異様な磁気に牽引されながらケイの背中に張り付いた。茶褐色の空蝉は、透明に変わり、そのままケイの背中に吸い込まれて消えた。
 それは土着の地霊がとり憑く姿を連想させたが、ケイは空蝉のことなど全く気にする素振りも見せず、水辺に正座した華老のすぐ側まで寄って、厳かに一礼した。
 ケイはさらに和歌を詠む僧侶にも敬礼した。それを受け、和歌僧もこの日が来るのを待ちわびたと言わんばかりに、優しく目を細め、ゆったりと会釈した。
 
 ケイは神懸かった指づかいで古代琵琶を奏ではじめた。
 聞き覚えのある旋律だった。一瞬、脳裏に閃光が走る。
 
 その曲は以前、彼が石夢野の洋館で奏でた『空蝉幻舞曲』に違いなかった。古代琵琶から放たれる音に導かれたのか、翡翠色の水面に浮き出ていた蓮形の紋様がより一層濃く立体的に立上がり、蓮の葉そのものと化して水面を覆っていった。
 老人は草花を生ける手を止めて傾聴した。
 
 次第に天空が紅く染まり、琥珀色の水晶が霰のように降り注いできた。暦などなかった頃の古代の雨と同じように、無垢の世界へ無意識に降り注いだ。砂地に喰い込む水晶の粒が原始的なリズムを刻む。それを背景に『空蝉幻舞曲』は薫風のように鳴り響く。螺鈿紫檀五弦琵琶に埋め込まれた螺鈿が貝光を放つ。
 簡素で秀麗な曲が奏でられた後、黙って耳を澄ましていた華の老人が軽く頷いた。全てを理解している者同士の、無言の対話だった。



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