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音庭に咲く蝉々 本文(抜粋1)。

皆様、お元気でお過ごしでしょうか?
毎年、異常気象に悩まされ課題山積ですが、
みんなで知恵を出し合って生き抜くことを
何とか全うできれば良いと考えています。

さて、本日は私の小説『音庭に咲く蝉々』の
本文から一部抜粋して、皆様へお届けします。

『音庭に咲く蝉々』菊地夏林人  (夏のシーン)

 鏡海寺の山門は繁茂する雑木林の緑に呑み尽くされようとしていた。
 閑さや門にしみ入る蝉の声。熱の逃げ場がない澱んだ町中とは違って、石夢野の空気はひんやりとしていた。深く息をすると、樹木の香りが肺に染み渡るのが心地好い。
 山門の脇に自転車を止めたケイは、石段を上って門を潜ろうとしたとき、偶然何かを見つけた様子だった。灰白色の門柱にしがみつく蝉の抜殻が見える。ケイはそれをじっと凝視して動かない。
「蝉? 蝉だよね」背後から僕が声をかけた。
「空蝉だよ。本体はもう羽化して何処かへ行ったはずだ」
聞き取りにくい低い声でケイが言った。恐ろしく真剣な眼差しが茶褐色の抜殻に注がれている。
 そして彼は神経質な手つきで、門柱にしがみつく蝉の抜殻を引き剥がすと、目線より高く掲げて太陽の光に向けようとした。周囲の鬱蒼と茂る樹木に遮られて、ほとんど光らしい光は届いていなかったが、わずかな木洩れ陽に抜殻を差し向けて、彼はひとつ溜め息をついた。
 
「人間は蝉にも劣る」ケイが不機嫌そうに言い捨てた。
「蝉にも劣る? どういう意味?」僕は驚いて彼の横顔を見た。
「人間は一生、幼虫のままで終わるんだよ。いくら努力しても絶対に羽化できない。毎日、毎日、羽が退化した虫のように落ちている餌を探して地上を這いまわる。そういう生き物なんだ。でも、俺は嫌だね。俺は…、自分の意志で羽化する」そう言い切って、ケイは指先に力を込めた。
 細長い指先が小刻みに震え、乾いた音が響いた。蝉の抜殻は粉々に砕け散った。それは風になぶられて散る花の虚しさに通ずるものがあった。不可解な儀式を連想させる不吉な沈黙。
「羽化するって、空でも飛ぶつもりなの?」呆れ果てて、少し笑いながら僕が話題を掻き混ぜようとすると、ケイは鋭い視線の刃先を突き付けてきた。
 息づまる沈黙。
 蝉の声が雨水のように降り続く中、僕は何も言えないままケイの言葉を待った。彼はどことなく悲しげな眼差しで僕を捉えていたが、急に何か諦めがついたらしく、無言で石段を上っていった。
 
 
 本堂へ向かう傾斜のきつい石段を避け、S字に曲がりくねった粗末な脇道を登り切ると、石垣の上に時原家の屋敷が見えた。静謐な庭はシナボダイジュ、ナツツバキ、モクゲンジなど仏教由来の樹木が多く、樹齢数百年の古樹が落とす不気味な影に包まれていた。
 敷地に入って数歩の処に、濡れて輝く手水鉢と龍神があり、飛石の曲線が辿る先に趣の深い茶室が佇んでいた。振り返って本堂を眺めれば、よく茂った桜の古樹と美しい梵鐘が吊るされた鐘楼が見え、それらの絶妙な配置が品の良い水墨画を彷彿とさせた。
 
 帰宅の挨拶もなしに、僧房自宅側の玄関で無造作に靴を脱ぎ飛ばしたケイは、掌を上下に揺らして僕を誘導する。入った瞬時は、古い農家の土間に似た薄暗い印象を受けたが、次第に目が慣れてくると、屋敷の中に林立する黒々とした太柱に目を奪われた。龍虎、鶴亀、松竹梅、七福神などの意匠が、独特の渦を巻いて精緻に彫り込まれている。
 美術館かと見紛うほど随所に掛け軸があり、水を掬すれば月手にあり・花を弄すれば香衣に満つ、心を洗って香と為し・体を恭んで華と為す、などの墨蹟も。一般住宅では見かけることのない極めて特異な美意識によって貫かれた空間に、僕の心はすっかり縮み上がっていた。

                          つづく





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