写真と民俗【彼岸・天皇と祟りと平安京】~日本の怨霊~
※この記事は約7分で読めます
(今回は少し長いので読むのが面倒な方はあらすじだけお読みください)
春分の日前後3日間は春のお彼岸
秋分の日前後3日間が秋のお彼岸
お彼岸は日本独自の行事です。
仏教発祥の地インドにも中国にもお彼岸の行事はありません。
言葉自体はサンスクリットのパーラミター(波羅蜜多)を「到彼岸」(とうひがん)と訳したことに由来していますが、日本独自の行事です。
お彼岸は第50代天皇・桓武天皇と、京都(平安京)への遷都に深く関わりがあるって知っていました?
お彼岸の歴史について京都・奈良・淡路島を回って取材をして来たので、ぜひ最後までお付き合いください。
※遷都(せんと) 都を他の地に移すこと
※桓武天皇(かんむてんのう) 第50代天皇
※注意
歴史には諸説あります。
個人によって解釈が異なる場合もありますので、あくまで一つの説としてお楽しみください。
あらすじ
全文読むのが面倒な人向けネタバレ解説
①仏教勢力排除の為に平城京から長岡京へ遷都
②天皇の腹心が暗殺される、犯人は天皇の弟?
③島流しになって死んだ弟が怨霊になる
④怨霊を鎮める為に作られた京都・平安京
⑤怨霊からまさかの天皇に即位
⑥鎮魂の為お経をあげ続けたのがお彼岸の始まり
以上ありがとうございました。
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詳しく知りたい方はこのままお進みください。
政治争いの末に遷都
8世紀の平城京では6世紀に伝来した仏教の影響がとても大きく、
神道の最高神官である天皇すらその例外ではありませんでした。
政治介入どころか天皇位をうかがうまでの権力を持った僧侶・弓削道鏡の台頭。
道鏡の影響を強く受ける孝謙・称徳天皇に危機感に覚えた藤原氏の後押しによって仏教勢力の影響を受けない、
天智天皇の家系である白壁王こと光仁天皇が天皇になります。
(ちなみに天武天皇系の後継者候補は孝謙天皇が全部殺しちゃってます)
光仁天皇の息子である、桓武天皇は仏教の影響力を削ぐ為に平城京から長岡京へ遷都を決めます。
※注意 桓武天皇は仏教の政治介入を排除したいだけで、仏教そのものを否定したり排除するのが目的ではありません。
※弓削道鏡(ゆげのどうきょう) 46代孝謙天皇・48代称徳天皇(同一人物)の寵愛を受け絶大な権力を持った僧侶。孝謙天皇の死後追放される
※光仁天皇(こうにんてんのう) 第49代天皇 桓武天皇の父
※藤原氏(ふじわらし) 明治維新まで朝廷の中枢を占めてきた貴族
長岡京への遷都と早良親王の島流し
急ピッチで進められる長岡京建設中にある事件が発生します。
長岡京の造営長官であり桓武天皇が最も信頼していた藤原種継(ふじわら の たねつぐ)が暗殺されてしまいます。
この暗殺の関係者として浮かび上がったのが
桓武天皇の実弟であり皇太子であった早良親王。
早良親王は無罪を主張しますが、桓武天皇はこの訴えを聞き入れず、早良親王を淡路島へ島流しにします。
絶食をして無罪を主張する早良親王は淡路島にたどり着く前に、無念の死を迎えます。
当時、早良親王は皇太子の地位であり、
桓武天皇が崩御された際には早良親王が次の天皇になります。
桓武天皇としては息子の安殿親王に跡を継がせたい思いと、
実は早良親王も一度は出家しており皇太子に選ばれた事から還俗(げんぞく) しているので、早良親王も仏教側の勢力と言えます。
実際、早良親王が藤原種継を暗殺した証拠はなかったと言われていますが、
証拠は無くとも政敵となりうる早良親王に罪を着せてしまえば、息子の安殿親王が皇太子位に付き自身の地位も安泰となります。
※皇太子(こうたいし) 天皇の皇位を継承する男児
※早良親王(さわらしんのう) 桓武天皇の弟
※安殿親王(あてしんのう) 桓武天皇の息子で後の第51代天皇・平城天皇
※還俗(げんぞく) 僧侶が一般人に戻る事
早良親王の祟り
長岡京へ遷都した桓武天皇は、仏教の政治介入と実弟である早良親王を排除し、息子が皇太子になった今こそ、わが世の春…とは行きません。
早良親王がお亡くなりになって三年後、早良親王の祟りが桓武天皇と長岡京を襲います。
桓武天皇の妻・藤原旅子(ふじわら の たびこ)が亡くなったのを皮切りに、
すぐ後にもう一人の妻と翌年には桓武天皇の母・高野 新笠(たかの の にいがさ)が続けに亡くなります。
さらにその2年後にはもう二人の妻も亡くなり、
たった3年で桓武天皇は4人の妻と母親、計5人の家族を失います。
早良親王の祟りに違いないと噂される中、
とうとう息子の安殿親王まで原因不明の病に倒れます。
息子の安殿親王まで病にかかり次は自分だと恐れた桓武天皇は、
早良親王の墓の周りに掘りを作り怨霊が外に出れないように封じ込めますが全く効果なし。
それどころか洪水による飢饉や疫病が発生します。
祟りを鎮める為に作られた都・平安京
あまりに強力な祟りに桓武天皇は、和気清麻呂の進言もあり未だ完成していない長岡京の建設を断念し新たな遷都を決めます。
風水・仏教・神道・果ては迷信まで駆使して選ばれた次の土地が現代の京都、つまり当時の平安京になります。
桓武天皇の祟りへの恐怖は凄まじく
対策は常軌を逸すると言っていいレベルで、まず京都を選んだ理由として、
東には鴨川(青龍) 、西には山陰街道(白虎)、南に巨椋池(朱雀)、北に船岡山(玄武)、という四神に護られた土地である事が理由だと言われています。
※和気清麻呂(わけ の きよまろ) 奈良時代末期から平安時代初期まで活躍した貴族。道鏡が天皇となるのを阻止した功績が有名
※四神(ししん ) 中国の神話に登場する、天の四方の方角を司る霊獣
さらに怨霊に対抗する為に荒ぶる神スサノオノミコトを祭った、大将軍神社を都の東西南北に配置。
上御霊神社・下御霊神社には早良親王本人をお祀りし、
鬼門とされる北東を幸神社・貴船神社・上賀茂神社・下鴨神社に守らせます。
注意※鬼門を守る4つの神社はもともとあった神社に、鎮護社としての役割が追加されたものです。
※スサノオノミコト 古事記に登場する男神。イザナキの鼻から生まれたとされる
※鬼門(きもん) 何をするにも避けなければならない、縁起が悪いとされる艮(うしとら)(=北東)の方角
※鎮護社(ちんじゅがみ) 建造物や土地を守護するために祀られた神
さらにダメ押し
怨霊封じを徹底した後、それでも心配な桓武天皇はダメ押しとばかりに早良親王の魂を鎮めるため、早良親王を死後天皇になった事にして崇道天皇と追諡(ついし)します。
名誉の回復した早良親王こと崇道天皇は崇道天皇八島陵へ墓を移され、
春分の日と秋分の日前後3日間、昼夜を問わずお経を転読することによって魂を鎮めたとされます。
この行事こそがお彼岸の始まりと言われいます。
※追諡(ついし) 死後に新たな名を贈ること
※崇道天皇(すどうてんのう) 早良親王の追諡。歴代天皇には数えられていない
※陵(みささぎ・りょう) 天皇・皇后などの墓
まとめ
呪いや怨霊は実在するのか?
以上がお彼岸の始まりと言われいます。
もはや一般的な行事として当たり前に浸透した、お彼岸ですが、怨霊を鎮める為に生まれた行事だったんですね。
現代人から見れば、「怨霊なんて存在しないモノにそこまでするか?」と不思議に思うかもしれません。
しかし古代日本では、怨霊も呪いも実在したんです。
オカルトの話ではありません、
【呪いを本気で信じる人が居る、信じる人が自分が呪われた事を知る。呪いの恐怖で具合が悪くなり、不安のあまり頭もおかしくなる。場合によっては死に至る。】
これって実際に呪いが成立してますよね?
現代でもプラセボ効果と言って、ただのラムネを頭痛薬と言って飲ませれば、頭痛が治るなんて現象はザラにあります。
呪いや怨霊という概念あるから名前が付いたのではなく、意味の分からない現象に名前と概念を作ったから、呪いや怨霊が存在するというパラドックスですね。
桓武天皇一人が悪い悪いわけではない
一連の事件は桓武天皇の権力欲によって起きた災難に見えますが、
それは歴史の一部を切り取った間違った評価と言えます。
前記の通り仏教勢力の台頭などもあり、当時皇位継承は非常に不安定な時代であり、
宮中でも呪いや暗殺が横行し権力争いが非常に熾烈であった事をご理解ください。
特に桓武天皇は400年続く平安時代の幕開けとなる最初の天皇であり、
東北地方の平定や、民への負担を減らすために徴兵制の廃止を決め、
東北から南九州にまで律令制を敷いた大きな功績を持つ天皇であり、
常に民の為に【徳のある政治とは何か?】を考えた天皇です。
(度重なる遷都と東北制定の為に財政難であった事実もあります)
歴史には大きな流れがあります、部分的に切り取って判断するのではなく大局観を持って学びたいですね。
※律令制(りつりょうせい) 古代日本の中央集権的政治制度
怨霊シリーズはまたいつか書きます。
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参考資料
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