決定論/運命論/機械論と美(芸術)

上記の記事でなにもかもが確定していると述べた。では、なにを美しいと思うかも決まっているのだろうか。

感性とはなにかを美しいと思う理由・原因だ。感性がないのに美しいとは思えない。
機械は絵をセンサーで感知できても美しいとは思えない。
だから、まず感性があって、その感性に沿って芸術を作る
そうでなくては原始人はいつまでも壁画を描けなかった。壁画を描くためには壁画を見て「これが芸術か」と知らなくてはならなかったからだ。
また、ある芸術品を見て感動して似たような物を探すのは芸術品に感性を作られたのではなく、もともとそういう芸術に感動する感性が露呈して、それに気づいただけだ。

ここで出てくる問題は2つ。

・感性は後天的に作れないのか(完全に先天的なのか)
・どのように生得的な感性を調べられるのか

前者には「日本に生まれて日本文化に囲まれて育った人からすると外国の芸術がときに奇異に見える」というような例がある。「日本文化に融和的な感性が作られた」ということだ。だから感性は後天的に作れる、というか厳密には「これが我が国の芸術のスタンダードで、国民のあなたにとってもスタンダードで、逆に他国の芸術はあなたにとってスタンダードではない」という傾向が作られる。感性には美しいと思う働きと奇妙に・醜く思う働きの両方がある。

文化を持たない(つまりなんの記憶もない)人が芸術品を見てどう思うのか、あるいは、あらゆる文化に精通した人があらゆる芸術品を見てどう思うのか、という思考実験をしてみてもいい。

後者はとても難しい。どんな文化も持たない人がいればその人に教われるのだが。
すべての芸術に共通する要素、あるいは芸術以外のすべてに共通する要素を見つけられれば分かるだろう。その努力の一つが黄金比だ。


今回の話をまとめると

感性を持って生まれる(先天的な感性であり本能)→芸術に触れて傾向・文化を持つ(後天的な感性→さらにその傾向・文化の芸術に触れる(後天的感性の強化)

という過程があることがわかる。
だからこそ予備知識がないと分からない芸術があることもわかる。
芸術の創始者Aが息子Bに「これが芸術だ」と教えて、Bが息子Cに「これが前の芸術で、これが今の芸術だ」とさらに教えるのを繰り返すから、生得的な感性だけではなんとも言い難い。

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