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【労働歌】「インターナショナル」の背景を探る【革命歌】

【0.はじめに】

今日は以前予告した通り、「労働歌」「革命歌」として世界的に名高い「インターナショナル」の背景を探っていきます。

ウジェーヌ・ポティエ  作詞
ピエール・ドジェーテル 作曲
「インターナショナル(ロシア語版)」

原曲はフランス語ですが、ロシア語バージョンの方が有名なので動画はこちらをチョイスしました。

この曲の背景を理解するためには、2つの「補助線」を引く必要があると思います。
まず一つは「国際労働運動(インターナショナル)」
もう一つは「普仏戦争」


まずは「国際労働運動」から探っていきましょう。

【1.国際労働運動(インターナショナル)】

17世紀以降、「大航海時代」によりグローバル化を果たした欧州各国は、貿易や商工業を発展させていきます。
そして都市部の平民を中心に富を蓄積した「ブルジョアジー」と呼ばれる人たちが生まれ、さらに「自由主義」「資本主義」「民主主義」などの新しい思想も生まれます。

国の経済を担いながらも身分が低いため政治に参加できなかったブルジョアジーたちは、自分たちを押さえつける王侯貴族の打倒を目指します。
こうしてフランス革命を代表とする「市民(ブルジョア)革命」が起こり、「市民が主役」の時代がはじまります。

しかし「市民が主役」といっても、その市民は「お金持ち」に限られ、人口の大半を占める都市部の貧しい労働者や地方の農民は相変わらす政治に参加できませんでした。
そして「産業革命」が起こり、彼ら「プロレタリアート(無産階級)」はブルジョアジー(資本家)に搾取されていきます。

労働者と資本家の対立は深刻な社会問題となり、そこから両者の対立を解消して理想的な社会を目指す「社会主義」思想が生まれます。
社会主義思想の中でも「科学的社会主義」を唱える「カール・マルクス」らは世界的な労働者・社会主義運動の連帯を目指し、「国際労働運動」をはじめます。
合言葉はもちろん『万国の労働者よ、団結せよ!』

曲のタイトル「インターナショナル」とは、この「国際労働運動」のことですね。
作詞者の「ウジェーヌ・ポティエ」は国際労働運動の影響を受けた「パリ・コミューン」に参加していました。
パリ・コミューンは普仏戦争終結直後の1871年に「革命」を起こし政権を奪取しています。

【2.普仏戦争】

ここからはもう一つのキーワード「普仏戦争」について探っていきます。
19世紀初頭に皇帝「ナポレオン1世」によって神聖ローマ帝国が解体されて以降、ドイツは小国に分裂した状態でした。
しかしフランス革命の影響を受けて「民族主義」が高まり、ドイツ人たちは「ドイツ統一」を望みます。

ドイツ諸国の思惑の違いもあり、ドイツ統一はなかなか進みません。
そんな中、ドイツ諸国の強国「プロイセン王国」宰相のビスマルクは『ドイツの問題は「鉄」と「血」によってのみ解決される』と議会で演説し、武力によるドイツ統一に乗り出します。

ビスマルクは「モルトケ」などの優秀な軍人を登用し軍備を増強します。
そして戦争で「デンマーク」「オーストリア」を破りドイツ統一を進めていきます。
統一に向けて残る障害は、皇帝「ナポレオン3世」率いるフランスのみ。

ビスマルクはフランスを挑発して宣戦布告させます、世に言う「エムス電報事件」ですね。
スペイン王位継承問題でプロイセンとフランスは揉めていましたが、一応フランスの言い分を飲む形で決着します。
『戦えばフランスに勝てる』と確信していたビスマスクは、この外交問題を利用します。

ビスマルクはプロイセン国王「ヴィルヘルム」が交渉の課程と結果を伝えてきた電報の内容を、どちらにも「相手が無茶苦茶なことを言っている」ととれるよう「改ざん」してドイツ、フランス両国民に伝えます。
これによりドイツ、フランス両国民が激怒。
外交交渉で決着したはずの問題が、一気に戦争へとエスカレートします。

時に1870年、ここに「普仏戦争」が勃発します。
プロイセン軍は準備不足のフランス軍を圧倒、皇帝ナポレオン3世を捕虜にするなどの大戦果を上げフランスを下します。
そして1871年にプロイセン王ヴィルヘルムがドイツ皇帝「ヴィルヘルム1世」として即位、ドイツ統一が成りました。

プロイセンはナポレオン3世退位後のフランス政府(ティエール政権)と講和を結びましたが、まだパリを制圧できていませんでした。
講和に不満を持つ民衆はパリに集まり、ティエール政権打倒とプロイセンへの抵抗を叫びます。
そして政府軍をパリから追い払い「パリ・コミューン政府」を樹立しました。

パリ・コミューン政府は史上初の「プロレタリアート独裁政権」として「自由・平等・連帯」を掲げ、「政教分離」「義務教育」「婦人参政権」「生活保護」などの民主的な政策を打ち出します。
しかしパリ・コミューン政府は約2ヶ月後に崩壊してしまいます。

戦上手なプロイセンは、捕虜にしたフランス軍をパリ・コミューン制圧に用います。
「汚名返上」に燃えるフランス軍に対して、様々な思想を持つ人の寄せ集めだったパリ・コミューン側は内紛が続きます。
パリ・コミューン政府は市民に「これは最後の決戦だ!」と呼びかけますが、まともに戦える体制を作れませんでした。

戦闘は一方的な展開となりました。
パリ・コミューン政府はフランス軍に敗北し、抵抗した市民の多くが犠牲となります。
こうして史上初のプロレタリアート独裁政権は露と消え、「フランス第三共和政」がはじまります。

【3.何度でも立ち上がる「不屈の意志」】

ここまで長い長い「前振り」でしたが、ようやく「国際労働運動」と「普仏戦争」という補助線が「パリ・コミューン」という点で交わります。
作詞者のウジェーヌ・ポティエはパリ・コミューン政府議員の一人でした。
ポティエはパリ・コミューン崩壊後、各地を逃げ回りながら「インターナショナル」の詩を書いています。

「インターナショナル」の歌詞にはパリ・コミューンの思想とポティエの経験が色濃く反映されていると感じます。
歌詞で印象的なのが『これは我々の最後の決戦だ』『インターナショナルと共に人類は立ち上がるのだ』というリフレインです。
これはパリ・コミューン最後の戦闘を彷彿とさせます。

ポティエはフランスでは「死刑確定のお尋ね者」のためイギリスに亡命しましたが、それでも晩年はフランスに戻り、極貧の中で非業の死をとげました。
おそらく彼の中には『負けたままでは終われない、再び立ち上がるのだ』という「不屈の意志」があったと感じます。

『ああ、パリ・コミューンでの「最後の決戦」には負けたさ・・・』
『でもまだ終わりじゃない!何度でも立ち上がって、また「最後の決戦」を挑んでやる!』
『「インターナショナル(国際労働運動)」がある限り、オレ達は何度でも立ち上がるんだ!』

また次の歌詞も印象的ですね。

『我々に救いを与える者は誰もいない 神もツァーリ(皇帝)も英雄も』
『我々が解放を勝ち取るのだ その自らの手で』

ここでいう我々とは、貧しい労働者や農民などの「プロレタリアート」でしょう。
プロレタリアートは人口の大半を占めるのに、政治勢力としては無視され続けてきました。
「聖職者」からも「王侯貴族」からも、そして彼らを打ち倒した「市民」からもです。

『それならもうオレ達でやるしかないじゃないか!』
『オレ達が抑圧の世界をぶっ壊し、新たな世界を建設する!』
『誰からも顧みられなかったオレ達が「世界の全て」になるんだ!』

この部分にプロレタリアートたちの深い絶望と怒りを見ることができます。
彼らの声を代弁しようとしたのは、わずかな社会主義者だけでした。
なのでパリ・コミューンの人たちは社会主義思想、そして「インターナショナル(国際労働運動)」を支えとしてきたのでしょうね。

【4.インターナショナル、その後】

インターナショナルは当初は詩だけで曲は付けられていませんでした。
なので民衆は詩を朗読するか、フランス国歌「ラ・マルセイエーズ」の曲にのせて歌っていました。

はじめて専用の曲がつけられたのは1888年のことで、フランス労働党リール支部音楽団員の「ピエール・ドジェーテル」が作曲しています。
1896年にリールで行われた労働者の大会で演奏され、海外の参加者からも注目されます。

この頃にはマルクスが主導した国際労働運動(第一インターナショナル運動)は内部対立により分裂していましたが、「フリードリッヒ・エンゲルス」とドイツ社会民主党が主導した「第二インターナショナル運動」が1889年に発足。
インターナショナルは第二インターナショナル運動とともに世界に広まります。

1902年にはロシア語訳が作られます。
ロシア革命を主導した「ウラジミール・レーニン」はインターナショナルを高く評価し、革命が成功した後の1918年にソビエト連邦の「国歌」と定めました。

日本では1903年にはじめて訳詞されましたが、これは詩として訳されたもので曲にのせて歌えるものではありませんでした。
ロシア革命5周年の1922年に、これを記念して『インターナショナルを日本語で歌おう』という機運が盛り上がります。
その際に俳優でプロレタリア作家の「佐々木孝丸」氏が、曲に乗せて歌えるよう訳詞しています。

日本語の歌詞は1音に1文字しか乗せられないので、情報量の多い外国語の歌詞を日本語に訳すのは大変難しく、佐々木氏の最初の歌詞も力強さに欠けるものでした。
佐々木氏はその後何度か手直しし、昭和の初めにようやく今の歌詞になりましたが、原詩の意味からはやや離れてしまいました。

戦前そして戦時中の日本ではその歌詞が危険視され、インターナショナルは人前で歌うことを禁止されました。
しかし戦後の「うたごえ運動」ではインターナショナルは多く歌われ、大衆に知られていきます。
戦後の食糧難の時代には『立て!飢えたる者よ』という歌詞は多くの人の心に響いたようです。

「うたごえ運動」は1970年代をピークに徐々に下火となり、労働歌、革命歌ばかりではなくポップスなども歌われるようになりました。
それに伴いインターナショナルが歌われる機会も少なくなりましたが、やはりこの曲は「時代を超えた名曲」だと思います。

【5.結論 「継承」と「発展」は大事】

その成立や発展の経緯から見て「インターナショナル」と「社会主義運動」は切っても切れない関係にあります。
そして曲で歌われている思想は、現在の「日本共産党」にも受け継がれているのかもしれません。

私は日本共産党がよく選挙のスローガンとして『日本の命運がかかった』や『歴史的な政治戦』など、やたらと「決戦」を叫ぶことがイマイチ理解できませんでした。
『確か前回も「決戦」っていってなかったっけ?』
『今回が「決戦」なら前回のあれは何だったの?』
という感じです。

しかし今回インターナショナルの背景を調べて、私も少しは理解できるようになったかもしれません。
インターナショナルでも、何度も『これは我々の最後の決戦だ』『インターナショナルと共に人類は立ち上がるのだ』と歌われていますね。
やはり日本共産党も『今回の選挙で負けたってまだ終わりじゃない!何度でも立ち上がって「最後の決戦」を挑んでやる!』という気概を持っているのかもしれませんね。

でもその気概がなかなか伝わらないんですよね・・・。
日本共産党の中にいる人には「あたりまえ」のことかもしれませんが、外部から見て『この人たちなんでいつも「決戦」なの?』と感じる人も多いと思います。

やはり「継承」と「発展」は大事です。
自分たちの思想や言動を、外部にもわかりやすく伝える工夫が必要と感じます。

【6.おまけ 「デエエエエン」】

インターナショナルはロシア革命後の1918年にソビエト連邦の「国歌」と定められましたが、1944年にはソ連の指導者「スターリン」の肝いりで「新しい国歌」が作られます。

それが「ソヴィエト社会主義共和国連邦国歌」ですね。
ネットでは「デエエエエン」の通称で知られています。
(本当にYouTubeで「デエエエエン」と検索すると出てくる)
こちらも、もう「荘厳」を楽譜に書いたような曲で、精神的に「アガる」曲です。

歌詞の内容は「社会主義万歳」「ロシア万歳」「レーニン(スターリン)万歳」であり、インターナショナルが持っていた「国際性」は薄れました。
これは「ロシア民族主義」と親和的だったスターリンの思想に影響されたからと見られています。

1991年のソ連崩壊とともに国歌から外れましたが、荘厳なメロディーにはファンが多く、2000年に制定された現行の「ロシア連邦国歌」にもそのメロディーが用いられています。