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「主張」をより広く伝えるための発信について

【はじめに】

2022年7月の参議院選挙投開票まであと2ヶ月を切り、Twitterのタイムラインにも政治的な主張が増えてきました。
その中には、特に「リベラル派」の方で自らの主張がなかなか広まらず苦慮しているツイートも見受けられまました。

私は「政治的な主張」がなかなか広まらないのは、発信の「量」ではなく「質」に問題があるケースが多いと感じています。
そこで今回は『主張をより広く伝えるための発信について』と題して、私が考える発信の「質」を向上させる方法について語っていきたいと思います。

【主張の前提となるもの】

いや本当にこれ。
どうして調べればすぐに分かるような無理のある主張を拡散するんでしょうね?

政治や社会に関して何かしらの主張を行い、その主張が広がらない場合には「発信方法」を工夫した方がよいと思うのですよ。
例えば先ほどのツイートで批判されている元ツイートにも『日米安保はこのままで良いのか?』という問題意識があるのだと思います。

『アメリカは日本のルールや世論にもっと配慮して欲しい』
『日本政府はアメリカにそれを伝えて欲しい』
その気持ちはわかります。
しかし事実に基づかない無理矢理な主張ではそれが伝わりません。
主張を伝える場合は、まず「事実に基づく」ことが前提になります。

【発信方法の工夫① 言葉の意味の摺り合わせ】

まず「事実に基づく」を前提の上で、工夫する発信方法としては「言葉の意味の摺り合わせ」があると思います。
同じ言葉を使っていても、意味が大きく異なっていれば意義のあるコミュニケーションは難しくなります。

昨年『野党は批判ばかり』という「批判」が起こり、衆議院選挙での立憲民主党の退潮につながったと言われています。
この批判を受け、選挙後の立憲民主党は政府批判を押さえ「提案型野党」への路線変更を図ります。
しかしこの路線変更も批判され、再び政府批判を強めています。

この迷走の原因は「批判という言葉の意味」の違いにあったと考えています。
本来「批判」にはネガティブな意味はありません。
しかし『野党は批判ばかり』という批判をしていた人たち(保守派だけでなく立憲民主党支持者も含む)は「批判」をネガティブな意味で使用していました。

それに対して路線変更を批判していた人たちは「批判」を本来の意味でとらえていて、『野党は批判するのが当たり前』と返します。
ここにディスコミュニケーションが発生していたと思います。

『野党は批判ばかり』という言葉の裏には『野党は本来の意味での批判ができているのか?』という問題意識がありました。
しかし「批判」という言葉の意味の違いでその問題意識は伝わらず、立憲民主党支持者間でも有意義なコミュニケーションが取れていなかったと感じます。
そのせいで支持者間の意思統一が図れず執行部の迷走につながったと考えています。

SNSで不特定多数に向けて政治的・社会的主張を行う場合には、まず言葉の意味から丁寧に摺り合わせる必要があると思います。
特に「リベラル派(安倍元首相や自民党に批判的な勢力)」の主張は「保守派(安倍元首相や自民党に親和的な勢力)」より「中間層(どちらでもない派)」に届きにくいと言われています。

この原因としては、使用されている言葉遣いや言葉の意味がリベラル派と中間層で大きく食い違っているからと見られています。
リベラル派はまず言葉の意味を中間層に合わせないと、彼らに響く発信は難しいと感じます。

【発信方法の工夫➁ 誰に向けて発信するか】

またリベラル派の主張を見てみると、その主張を「誰に伝えたいのか」不明瞭なケースが散見されます。
例えば自分たちの政治的主張を「無党派層」に伝えたいとします。
しかし実際「無党派層」という人たちは存在しません。
「日本在住で現在支持している政党がない人たち」を無党派層と呼んでいるだけであり、その実態は千差万別です。

そのため無党派層に向けての政治的主張は、どうしても「ぼんやり」としたものか「過激」なものになりがちと感じます。
やはり「主張を届けたい人」をもっと具体的にイメージした方が明確に主張が伝わると思います。
少し前ですがこのような記事がありました、私はこの記事の意見に賛成です。

記事で上げられている「5つのヒント」はどれも大事なことです。
記事で言及されているSNSとは主に「Facebook」や「Instagram」等のことであり、基本的に友人・知人に向けての発信を想定しています。
しかしTwitterでの応用は可能と思います。

私はTwitterで政治的・社会的主張を行うときは、たいていリアルまたはネットの「友人・知人の顔(アイコン)」を思い浮かべて書いています。
そのほうが『この表現のほうが伝わるのでは?』といった工夫や、『この方にここまで言っては失礼だ』などの抑制が働きやすいからです。

私は記事にある通り『リツイートやシェアは単なる作業ではなく、あなたが「これを知らせたい」と思い、愛を込める発信活動なのです』という意見に賛成です。

全く見ず知らずの人に対して「思いやり、愛を込める」ことは難しいと感じます。
しかし友人・知人ならそれが可能ですし、その友人・知人と考え方が近い人にも伝わると思っています。

【発信方法の工夫③ 「沈黙」を破るには】

私は先ほどの記事を読んで一つの曲を思い出しました。
アメリカのフォークデュオ「Simon & Garfunkel(サイモン&ガーファンクル)」が歌った1964年のヒット曲
「The Sound of Silence(サウンドオブサイレンス)」です。
もう60年ほど前の曲ですね。

いろんな言葉が洪水のように流れる現代は、かえって意味のあるコミュニケーションがとれなくなっている。
そのため、この世界は「沈黙」に包まれようとしている。

そのような思いを歌った曲です。

このような状況で「真実の言葉」を発しても、それは「音も無く降る雨粒」のように言葉の洪水に飲み込まれて「沈黙」を破れない・・・。
60年前からすでにこのような感覚があったのですね、まさに現代のTwitterを予言したような曲だと感じます。

このような現代で、あえて「沈黙」を破るためにはどうすればよいか?
そのヒントが「SNSで建設的な議論を生み出す5つのヒント」にあると思います。

自分たちと「真実の物語」を共有していて、事前の摺り合わせなく主張が通じる人とだけ話すのは楽しいかもしれません。
特に「リベラル」な人は自分と政治的な主張が異なる人と話すことにストレスを感じるようです。
これはアメリカでの調査ですが、日本の「リベラル派」も大きく変わらないと思います。

だからといって「真実の物語」を共有している人どうしで「真実の言葉」を語り合っても、それは「沈黙の井戸」の中でこだまするだけであり沈黙を破れないと思います。
あえて「沈黙」を破るためには、やはり意見の違う人との丁寧なコミュニケーションが必要だと感じます。

【結論 伝えるべきは「真実」ではなく「事実」】

伝えるべきは「真実」ではなく「事実」なんです。
真実は発信側でなく「受け手」が判断することです。

自分たちだけで共有する「真実の物語」を伝えようとすると事実が伝わらず、結局「物語」に共感を示す範囲(沈黙の井戸の中)にしか伝わらないと思います。

「沈黙」を破るカギは「意見の違う人を思いやれるか」「意見の違う人を個人として尊重できるか」だと思います。
その上で独りよがりな主張を抑えつつ、言葉の摺り合わせの手間を厭わずに「惜しげもなく声を広げる」ことが必要になってくると思います。