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「精神的自由(内心の自由)」を守るために

【0.はじめに】

2022年10月3日、匿名掲示板「2ちゃんねる」の開設者で実業家・インフルエンサーとしても知られる「ひろゆき(西村博之)」氏が、Twitterで「辺野古基地建設反対運動」や「座り込みをする人たち」を揶揄するような投稿をしたことが波紋を呼び、沖縄県知事まで名指しで言及するなど異例の事態となっています。

私はここ最近、Twitterで「精神的自由」について取り上げて語ってきましたので、この機会に自分の考えをまとめておきたいと思います。

長くなりますが、お読みいただき感想などをいただければ幸いです。

注)こちらの記事では「辺野古基地建設反対運動」や「座り込み」の是非については語っていません。
主題は「精神的自由」特に「内心の自由」を守ることと、「敬意を持つ」という内心と「敬意を払う」という表現の折り合いについてです。
「辺野古基地移設問題」については、機会があれば後日語ってみたいと思います。

【1.基本的人権の分類】

個人が特定の事象や人物に対して「敬意」を持つかどうかは、完全に「個人の自由」ですね。
『現場で3000日余り抗議を続けてきた多くの方々に対する敬意は感じられない、残念だ』

私はここ最近、思うところ有ってTwitterで何度も「精神的自由」について取り上げてきました。
ちょうど良い機会なので、「精神的自由」とりわけ「内心の自由」についてもう少し掘り下げて考えてみたいと思います。

まず基本的人権は「自由権」「社会権」「参政権」「その他(新しい人権)」に分類されます。

基本的人権の中でも特に重要視され、人権思想の中心的な位置を占めるのが「自由権」です。
そのため自由権は他の人権よりも厳格に保護されます。
自由権は「精神的自由」「人身の自由」「経済的自由」に分類されます。

精神的自由は、さらに「内面的精神活動の自由(内心の自由)」と「外面的精神活動の自由」に分類されます。
思想・良心・信条などの自由は「内心の自由」にあたります。
外面的精神活動の元となるものが内心なので「内心の自由」が守られないと表現・学問・信教などの「外面的精神活動の自由」も守れなくなります。

例えば『「人を監禁して暴力で酷い目にあわせる」なんてのは悪い考えだから禁止』と言われたら、そのようなミステリー小説やバトル漫画は書けなくなるでしょう。(表現の自由の侵害)
また『○○教は邪教だから信じるのは禁止』と言われたら、○○教の活動はできなくなるでしょう。(信教の自由の侵害)
さらに『共産主義は危険だから共産主義について知ることは禁止』と言われたら、共産主義についての研究はできなくなるでしょう。(学問の自由の侵害)

そのため内心の自由は「絶対的自由」とされ、絶対的に保障されます。
例え私がどんな「邪教」を信仰しようと、どんなに「邪悪」な考えを持とうと、心の中で思っているだけなら他人の人権と衝突しません。
つまり私が何を信じ、何を思おうと、私以外の人には全く関係のないことなのです。

なので、例え国(国家権力)に『オマエは何を考えているんだ?』と聞かれても、『それがどうした?それはオマエ(国)に何の関係があるんだ?』としか返しようがないですね。

尚、憲法は「国家権力を制限して国民の人権を保障する」ためのものなので、国から個人を守ることを想定した書き方になっています。
では個人間なら相手の思想や信仰を問うても良いか?と言われたら、当然そんなことはないでしょう。

思想や信仰は「国家権力でさえ問えない」ことなのです。
個人相手なら『オマエにそれを答える「義理」も「義務」もない』で終わりですね。

個人の思想や信仰を「いつ・どこで・だれに」話すかも個人の自由です。
「誰にも話さない」のも「家族にだけ話す」のも「友人にだけ話す」のも「マスコミで広く公言する」のも自由です。
時間や場所や相手を他人に指定されるいわれは全くありません。
『今・ここで・オレに話せ』と言われても、『ムチャ言うなよ・・・』と答えるしかないですね。

【2.「内心の自由」を侵害した歴史的事例】

ここまで主に「精神的自由」とりわけ「内心の自由」とは何かについて見てきました。
ここからは、「内心の自由を侵害する」ことについても考えてみましょう。

『どうすれば内心の自由を侵害できるか?』

これは歴史を紐解けばいくつも事例が見つかります。
日本で一番有名なのは、江戸時代にキリシタン(キリスト教徒)に対して行われた「踏み絵(絵踏み)」でしょう。

日本では秀吉の時代から海外侵略の「先兵」になる可能性があったキリスト教を危険視し、宣教師の追放や教会の破壊を行ってきました。

それでもキリスト教徒があまり減らなかったため、政府(江戸幕府)は国民に対し「キリスト教の信仰を持つこと」自体を禁止しました。
その際、国民がキリスト教の信仰を持っていないか確認するために行われたことが「絵踏み」でした。
キリストや聖母マリアを描いた絵(踏み絵)を踏ませようとして、踏めないものをキリスト教徒と見なして処罰するものですね。

絵踏みがはじまった当初はキリスト教徒を見つけ出す効果がありましたが、その内「心の中でキリスト教を信仰すればよい」という考えが広まり効果は薄れたようです。
それでも遠藤周作の小説「沈黙」に描かれたように、キリスト教徒の精神的苦痛はかなりのものだったと思われます。

同じぐらい有名な事例が、中世ヨーロッパを中心に行われた「魔女狩り」でしょうね。
元々キリスト教の聖書(旧約聖書)では、魔術や占いは否定的に書かれていました。
その伝統は今でも残っていて、映画「ハリーポッター」に批判的なキリスト教徒も存在します。

キリスト教の(ユダヤ教やイスラム教も?)世界観は「唯一絶対の神が世界を創造し、一元管理している」というものです。
故に「奇跡」などの超常現象は「神の意志に叶う」ときに「神の力」で発現するものという理解です。
一方、魔術は「使用者の意志」で「神の力によらずに」発現するため「神を否定するもの(反キリスト)」と見なされました。

なので魔術を使用する魔女は徹底的に弾圧して滅ぼすべき存在であり、「魔女裁判」は凄惨を極めました。
因みに魔女は「男に化けることができる」ので男性もターゲットになります。

代表的な魔女の見分け方は「身体のアザやホクロを針で刺す」というものでした。
痛がらなかったり血が出なければ魔女、そうでなければ魔女じゃないというものですね。
針はわざと先が丸いものや、押せば引っ込むものが使われたそうです。

さらに「手足を縛って重りをつけて水に投げ込む」という方法も使用されました。
水はキリスト教の「洗礼」にも使われる清浄なものなので、「反キリスト」の魔女なら水にはじかれて浮かび上がるという考えですね。
もちろんほとんどの人はそのまま沈んでいきました。
もうこうなると疑われた時点で「排除確定」ですね。

魔女狩りは「遠い昔の出来事」ではありません。
20世紀に入ってからも旧ソ連の「大粛清」で魔女狩りと同様のことが行われました。

大粛清でまずターゲットにされたのは、当時の指導者「スターリン」の政敵「トロツキー」の信望者である「トロッキスト」でした。

スターリンの意を受けた粛清の実行者たちは、スターリンの政敵に「トロッキスト」のレッテルを張り、茶番劇の「見せしめ裁判」で有罪判決を出させて排除します。
さらに政界だけでなく社会全体に外国のスパイなどの「人民の敵」が入り込んでいると喧伝します。
職場の些細なミスやトラブルまで「人民の敵」が起こしているとして『社会が上手くいかないのはヤツらのせいだ』と煽りました。

大粛清を主導した実行者「ニコライ・エジョフ」は、人民の敵を逮捕するために人数割り当てを盛り込んだ計画を作成して各地に「ノルマ」としてばらまきます。
これは「捜査する前から逮捕する人数を決める」という無茶苦茶なやり方でした。

こうして職場で些細なミスを起こした者や「遅刻が多い」「すぐ休憩に行く」などの勤務態度が悪い者が「人民の敵」と見なされて問答無用で排除されていきます。
大粛清の実行者たちは「100人の冤罪を出しても1人のスパイを排除する方が大事」という考え方でしたし、現場は「ノルマ」をこなすことが精一杯でこの流れを止めることができませんでした。

魔女狩りは自由のない社会だけで起るものではありません。
第2次世界大戦後のアメリカや日本でも「赤狩り」や「レッドパージ」が行われました。
そして今でも世界各地で「移民・外国人排斥運動」が行われています。

「よくわからない」「よく知らない」他者を不気味に思い、「近づきたくない」と感じるのは多くの人にある感情だと思います。
この感情が「社会不安を煽る煽動者」と結びつけば「魔女狩り」が発生する危険性が高まります。

ある意味「魔女狩り」は「人類の宿痾」かもしれませんね・・・。

【3.「内心」を疑われる恐怖】

魔女狩りの、そして「内心を疑われる」ことの怖さは「無実の証明ができない」ことにあると思います。
人間の心の中は誰にものぞくことはできません。
つまり「そんなこと思っていない」ことを誰も証明できないわけです。
例え「絵踏み」をしても、実行者に『教祖から踏めと言われたんだろう』と疑われたら証明になりません。

『疑われる』⇒『無実を証明できない』⇒『排除確定』つまり『疑わしきは罰する』なら『疑われないようにする』しか生き残る方法がなくなります。

疑われないためにはどうするか?
「お金」のある人は実行者に賄賂を渡すかもしれません。
「コネ」のある人は実行者に誼を通じるかもしれません。

でも「お金」も「コネ」もない多くの人はどうすればいいか?
おそらく「熱狂的に実行者たちに迎合」し「積極的に密告する」しかなくなるでしょう。
実際に「魔女狩り」でも「大粛清」でも「赤狩り」でも密告が奨励されました。

内心を疑われ、密告が奨励されると社会はどうなるか?
これも人類は何回も経験しています。
恐怖と猜疑心に捕らわれ、誰も信用できなくなり、誰とどのように付き合えばよいか分からなくなります。
このような状況では社会の「安定」も「発展」も難しくなります。

なにより恐怖と猜疑心に捕らわれ、熱狂的に実行者たちに迎合し、積極的に密告する人たちに「個人の尊厳」はあるのかと考えてしまいますね・・・。

【4.では「表現の自由」は?】

思想・良心・信条などは内心に留める限り絶対的に保障されます。
では外に出した場合は?
その場合は「公共の福祉」によって制限されます。

表現の自由は内心の自由と密接に関わりあっているため、出来るだけ最大限に保障されます。
だから日本国憲法21条1項には『集会、結社及び言論、出版その他「一切の」表現の自由は、これを保障する』と書かれています。
つまり「何を」「どのように」表現しようが「原則自由」なのです。

それでも表現の自由よりは「個人の尊厳」が優先されます。
そのため刑法には「名誉毀損罪」や「侮辱罪」が制定されています。
また日本国憲法21条2項で「検閲」が禁止されているにも係わらず、「出版物の事前抑制」が例外的に認められています。

ただ「個人の尊厳が優先」といっても一筋縄ではいきません。
誰かに賞賛される言動でも、他の誰かを傷つけることはありえます。
誰も傷つけない表現はあり得ないので、「誰かを傷つける表現はできない」のなら「誰も」「何も」表現できなくなります。

そこで「公共の福祉」による調整が必要になってきます。
具体的には「司法(裁判所)」が法律に基づいてどように調整するか判断します。
法律に不備(時代や事象に適応できていない等)があり司法による調整が上手くいかない場合は、政治(立法)が主権者である国民の要望を取り入れ、専門家(官僚や法律家)の意見を聴き法律を制定・改正します。

私はそれが「法の下の平等」だという理解です。

【5.今回のケースについてどう考えるか】

ずいぶん遠回りしましたが、ここから冒頭の「ひろゆき」氏のケースをもとに「内心の自由を守る」にはどうすればいいか考えていきたいと思います。
まず、ひろゆき氏が「辺野古基地建設反対運動」や「座り込みをする人たち」に対して敬意を持つかは、完全にひろゆき氏の自由です。
敬意を持つかどうかは「内心の自由」だからです。

そもそも、ひろゆき氏が本当に敬意を持っているか否かはひろゆき氏にしかわかりません。
誰もひろゆき氏の心の中をのぞけないからです。
したがって、ひろゆき氏が敬意を持っているか否かは他者にとっては全く関係のない「どうでもいいこと」だと思います。

では、ひろゆき氏の「辺野古基地建設反対運動」や「座り込みをする人たち」を揶揄するような言動はどうか?
これに関しても表現の自由の範疇であり、守られるべきだと考えます。

ただし「公共の福祉」による制約はあるので、『私の名誉が毀損された』『私が侮辱された』と感じた場合は法的手段に訴える権利があります。
日本国憲法32条によって、国民には等しく「裁判を受ける権利」が保障されています。

そして、ひろゆき氏にも『私の名誉が毀損された』『私が侮辱された』と感じた場合は法的手段に訴える権利があります。
日本では「法の下の平等」が保障されているので当然ですね。

もちろん、ひろゆき氏の言動に関してどのような感想を持とうと自由ですし、批判も自由です。
ひろゆき氏を嫌うのは内心の自由であり、『ひろゆきなんて嫌いだ』と公言することは表現の自由です。

まさにこのマンガのセリフの通りですね。

ただ、ひろゆき氏にも他の誰に対しても『「辺野古基地建設反対運動」や「座り込みをする人たち」に対して敬意を持て』とは言えないでしょうね。
何度も言いますが、敬意を持つかどうかは「内心の自由」であり、各個人が決めることです。

注意を要するのは『敬意を持てないヤツは思慮が浅い』などの批判ですね。
これは多くの人を「十把一絡げ」にしてレッテルを貼る雑な批判だと思います。

最悪なのが基地反対派に対する「反社・カルト」認定ですね。
こちらも雑ですし、意見の違う者に「まともな人間じゃない」とレッテルを貼って排除を容易にする危険な言説だと思います。

思想・信条の自由、表現・言論の自由が保障されているので「やめろ」とは言いませんが、こういう雑なレッテル貼りには乗らないよう気を付けたいですね。

【6.「内心の自由」と「表現の自由」の折り合い】

では「敬意を持つ(内心の自由)」と「敬意を払う(表現の自由)」に折り合いをつける方法はあるか?

一つ考えられるのは『内心はどうあれ、とりあえず儀礼的にでも敬意は払うべき』という考え方ですね。
特に政治家や公務員などの「公人」は、立場上敬意を払うことが必要になるケースもあると思います。

国歌・国旗に対して否定的な思想を持つ公務員(公立学校教員)に対して、上司が式典で『国歌斉唱の際に起立斉唱せよ』と命じることは「内心の自由の侵害にはあたらない」との判例もあります。
これは『式典では儀礼的に起立して国歌を歌うことが必要』と言っているだけで、『国歌・国旗を肯定しろ』と言ってるわけではないという判断ですね。

ただし上記の判例は相当に限定された状況下のことですし、そもそも公人でないひろゆき氏に従う義務はありません。
難しいものですね・・・。

【7.結論 「強制」はできないが「説得」ならできる(かもしれない)】

そもそも、『オマエは特定の人物(グループ)や事象に対して「リスペクトしろ」と言われたらリスペクトするのか?』と問われたら、『そりゃムリでしょうね』と答えます。
よっぽど信頼している人から言われない限りは、どうしても「リスペクト」より「反発」が先に立ちます。

それではどうしたらリスペクトしてもらえるか?
一つは『彼(彼ら)がリスペクトに足る立派な言動をしている』と伝えることでしょうね。
それもなるべく「多面的に」伝える方がよいと思います。

価値観の多様化した現代、「なにを立派と感じるか」も人それぞれです。
故に「一面的」でない多面的な伝え方が必要だと感じます。

もう一つは『とりあえずリスペクトしなくていいから、彼(彼ら)は今の社会に必要なことを行っているのを理解して』と説明することでしょうね。
彼らの言動の「必要性」を論理立てて説明し理解してもらう。
そこからリスペクトするかどうかを判断してもらう方法です。

例えば江戸時代の徳川5代将軍「徳川綱吉」は、悪法と呼ばれる「生類憐れみの令」を施行し「犬公方」と揶揄された暗君と伝えられてきました。

しかし近年、歴史研究が進むと『武力を背景にした強圧的な「武断政治」を見直し、法と倫理によって統治する「文治政治」へと転換するきっかけを作った』と再評価されています。

綱吉の言動(政策)の必要性が多くの人に理解された結果ですね、「犬公方」と揶揄する人も少なくなりました。

古代ギリシャの哲学者「アリストテレス」によると、人を説得するためには以下の3要素が必要とのことです。

1)ロゴス(論理)
2)パトス(情熱、感情)
3)エトス(信頼、人間性)

上記で言えば、『リスペクトに足る立派な言動をしている』と伝えることは「パトス(感情)」によるアプローチですね。
そして『今の社会に必要なことを行っている』と説明するのは「ロゴス(論理)」によるアプローチです。

アリストテレスの挙げる3要素の中で優先される順序は「エトス」→「パトス」→「ロゴス」です。
とはいえ知らない人に対するエトス(信頼)は0なので、まずはパトス(感情)で説得する相手の心を掴む(興味を引く)必要があります。
まず興味を引いておいてロゴス(論理)で説明する、これが上手くいけばエトス(信頼)を積み上げることができる。

そして十分に相手のエトス(信頼)を得られれば、『彼は立派な人だ、私はリスペクトしている』と言われると『じゃあオレも』となるかもしれませんね。(私なら多分そうなる)

「揶揄」「皮肉」「誇張(大げさに言う)」などの「修辞法(レトリック)」は表現を豊かにする技法で、日常会話でもよく使用されます。
しかし実際に顔を突き合わせて話すのではなく、表現できる範囲が制限されたネット(特にTwitter)ではレトリックを使いすぎるとかえって伝えたいことが伝わないと感じています。

ネットできちんと意見を伝える場合には、レトリックはなるべく少なめにして「誠実」に振舞うことが一番だと感じます。

【8.まとめ】

長くなりましたので、ここで言いたいことを3行にまとめます。

1)「内心の自由」は「絶対的自由」、誰が何を信じようが、何を思おうが他人には全く関係のないこと
2)他人の内心に対して「強制」することはできない、だが「説得」なら可能かもしれない
3)「パトス(情熱、感情)」と「ロゴス(論理)」で誠実に対話を重ね、「エトス(信頼)」を得られれば説得できる可能性も高まる

ここまでお読みいただき、ありがとうございました。

【9.おまけ】

最後に一曲

「チェッカーズ」 1986年のシングル「OH!!POPSTAR」のカップリング
「おまえが嫌いだ」

いいですね、嫌いなら『嫌いだ』とはっきり言えばいい。
ネットではこれぐらい正直でストレートな方が伝わると思いますよ。