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民商事務局だった頃の話

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1989.9~1990.10頃のはなし
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民商事務局にいた頃の話⑤

久方ぶりにこのネタ。

巌名泰得氏のネタが一つ。

31年前の某日、事務局会議で、このお人が、月刊「現代」に寄稿していた記事のことを、口にしたことがある。その際、先輩さんは言った、

「そんなもの読んだらダメだ」

おいおい・・・・

問答無用の拒絶。

確かに、共産党にとっては、ネガティブな記事だった。

ただ、だからといって、無下にはねつけるのはどうかと思う。

私もごねりゃよかったんだけどね

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松竹騒動について

松竹騒動について

挿入写真はただのシャレなので、お気になさらないでいただきたい。

共産党は、党規約に、「意見が違うことによって、組織的に排除してはならない」
としているが、実際はどうか。
確かに、グルでやってはいない。
しかし、この党で多々見受けた党員は、意見が違う相手は、人格ごと否定していた。
それでもって、「異論は排除しない」
はそれこそ詭弁。
地域差はあると思うが、大きな県の共産党員に、「意見の違う相手を人

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続 票だけ入れとけ、中に入るな

最近、民商にいた頃浴びた罵詈雑言が、よく脳裏を過る。
特に、ひどい事務局長だったタカギ。
「理由にならん」
が口癖だった人物だ。
小柄なメガネ面だったが、人をののしるために生きていたような人物。
夜学に行きながらの勤務、というのを事実上反故にしたのも、このタカギ。
学費の貸付という取り決めは踏みにじったし、挙句
「週3日しか行くな」。

この者は、悪い意味で、共産党員らしさを体現していた。
<民商

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民商事務局にいた頃の話④

このシリーズ、今イチ気乗りせずに筆が?進まない。

私が民商を辞めたのは、30年前の今時分。

バイク事故で入院してから、療養、で、そのまま辞めた。

通勤労災にしてくれた彼らの情けは、それはそれでありがたかったが・・・

なら、なぜ、人を追い込むようなことばかりした?

詳しい経緯は気が向いた頃に書くけどね。

とにかく、ガッコ行くことを優先<正確にはガッコの図書館>したので、民商は辞めることに

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民商事務局にいた頃の話③

思えば、30年前の今頃、入院していた。

理由は、バイク事故。

事故そのものは、この年の7月初日だった。

この辺のことは後日。

ちなみに、その、事故日を境に、出勤することはなくなった。

こそあど言葉だらけになるが、語彙力不足もあって、適切な字句が思い浮かばない。

簡単に言えば、朝M民商に向かっていたら、バイクで電柱にぶつかって、右脚がもろに折れた。最大要因?バイクのタイヤだわな。当時中古

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民商事務局にいた頃の話②

久々に、このシリーズやりますか。

現今、検察庁法改悪でかまびすしいが、人質司法を改廃しないと、第二第三の黒川弘務は現れる。黒川本人も、収賄容疑がかけられてるので、辞めるにやめられないかもしれないが、辞めさせないと、地獄に落ちるのは民衆。

閑話休題。

民衆の味方のはずの民商だったが、「同志」には、必ずしも優しくはなかった。事務局連中が一番わかっていなかったのは、「以心伝心」。これに尽きる。

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民商事務局にいた頃の話①

何年も在籍したわけではない。

通算で、一年ちょいだ。

しかしながら、悪しき意味で、濃い期間だった。

取り決めそのものは、「夜学通いながらの勤務を認める」だった。また、入学金と、半期分の学費を立て替えます、という、「満額回答」の条件で、「入局」した。

1989.9の話だった。

しかしながら、それは、反故にされた。

(当たり前だけど)学費も入学金も、自分で払った。そのくせ、「ガッコには週三

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新シリーズ 民商事務局だった頃の話

ずーっと前からカクカクと言ってきたので・・・

私が民商事務局にいたのは、30年前だ。

政治に多少詳しいのはそのため。

できるだけ、時系列で書いていくつもり。

ただ、あまり良い記憶はない。

とはいっても、アカの猛者たちに「揉まれた」のも事実で、

ゆえに世慣れたのも事実。

一年そこらしかいなかったが、取り決め反故ったりされりゃ、気持ちは離れる。それゆえ去った。ずーっと、坪井令和(仮名)に

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