ぼやき

最近、身体の不調が続いている。9月末から不正出血があったり、10月初めにウイルス性腸炎になったり、2、3日前にはぎっくり腰、昨日は耳鼻科へ行ってアレルギー性鼻炎と診断された。ちょっとボロボロ。夢にも不調が表れている。歯が全てぼろぼろと血を流しながら抜ける夢。身体に不調が出る時にはよくこういう夢を見るがなんなんだろうか。理由はわからない。わからなくていい。見ていて非常に不快なのは変わらない。

ウイルス性腸炎になった時は、夜寝る時に下痢が止まらなくて寝られなくて、仕方なくおじいちゃんの介護用オムツをかりた。この歳で介護用オムツを体験する日がくるとは。なかなか履き心地が悪かった。こんなものを無理やり履かせられるおじいちゃんの気持ちが少しわかった気になった。介護する側の都合で履かせられているだけで、全然快適じゃない。こういう体験が一体何になるのかはよくわからないが、一旦同じものを履いてみる、他人の感じていることを追体験するって大事なことのような気もする。--------------------------

父に勧められて、「街場の親子論」という本を読んでいる。言っていることは難しくて「?」だらけなのだが、内田樹さんとるんさんの親子の往復書簡という形なので読み進めやすい。一個だけ今のところ響いたのは「理解できないけど、気になる」という存在がいても、そういう人間関係があってもいいんじゃないかという内田さんの主張だ。人間関係とは少し違うかもしれないが、私がくるりの岸田さんを追っかけてるのも、aikoを中学校の頃から聴いているのも、「わからないけれど、気になる」という感情によるものだ。「理解しがたいけど、目が離せない」感覚は私の中に常にあって、それを肯定されたような気がして、内田さんの主張には大きくうなづいてしまった。ファンだからといって、そのアーティストの表現全てを受け止める必要もなくて、たまには「つまんない曲~」って思ってもいいんじゃないか、いや、そう思うこと自体健全なことのように思える。私の家族に対する感情も、「言ってることつまんないけど、とりあえず聴く」とか、「やってることは意味わからないけど、協力する」みたいな感覚だったりする。共感したり、同調することが圧力となっているこの世の中で、うっかりするとわからないことが悪いことと思い込んで自分で自分を苦しめることになるけれど、わからないもの、理解し難いものはそれはそれで、自分のそのタイミングでただ理解しえなかっただけ、と開き直るのも手だなぁと思う。

今日は朝から活動できていて、このnoteを朝10時過ぎに書いているという事実に自分で自分にすごいぞ!と言いたい。なぜなら、ここ2か月近く午前中に活動することが不可能になっていて、このまま布団から一生出られないんじゃないかと思うほどだったから。今日は見事な秋晴れで沖縄にしては珍しく涼しい気候だ。涼しくなってきて動きやすくなってきている一方で、身体は少し悲鳴を上げている。ぼちぼちやっていきたい。

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