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最後通牒の使い方

山下達郎さんは、私の最初の音楽への目覚めだったかも知れない。彼の2枚目の
アルバム、Spacyは大好きな一枚で、二曲目の曲は私を瞬く間に数十年前に戻してしまう。同時代を若い人として生きた、あの粘りのあるボーカルは彼独特のものでかけがえがない。

さて、その彼が故ジャニー喜多川氏のことで発言したのを文字で読んだ。賛否も容認も失望も渦巻いているみたいだけど、彼の立場と感慨を余すところなく話していて、それは理解できた。

そして、達郎さんの「そういう方には私の音楽は不要でしょう」という強い発言は、私に、故安倍晋三氏の「私や妻が関係していたら政治家を辞める」という発言と、その後の高市早苗氏の似たような「〜だったら議員辞職する」の、このふたつを思い起こさせた。

この三つの発言の共通点は、最後通牒であることだ。
私は何度となくかつてのパートナー達に「だったら別れる!」と突きつけたことがある。あるパートナーには「だったら死んでやる」と自殺するふりを見せつけられたこともある。いや、誰でも経験があるかも知れない、こういうことは。

最後通牒とか、切り札とか言われる、それですよ。芝居なら見栄を切る、とでも言うかな。あんまり連発しちゃいけないやつです。いわば脅しの一種だから。でもさ、うちの5歳の孫だって言うかも知れない。つまり、老いも若きも時たま使うのだ、これを。

一体、人はどんな時にこれを使うのか?それはね、今の私にはわかるよ、土俵際です。どうしても負けられない時、つまり負けそうな時。説得が暗礁に乗り上げた時、勝ち目のない時。この話題を打ち切りたい時。あと、何かあるかな。

これは語彙が豊富にあるとか、少々角度を変えて事態を眺めるとか、自分を俯瞰して見つめるとか、相手の気持ちに寄り添ってみるとか、そういう条件が整えば避けられる。もう少しユーモアを交えたり、タイミングをずらしたりして、紛糾は避けられる。まぁ、でもなかなか難しい。

達郎さんの「不要でしょう」発言は、自分の一番価値のあるもの、評価を得ているものを後ろ手に隠すような仕草なので、実に子どもっぽい。発言が過去のことに終始していて、情報を得た今後はどうするかについては一切触れていないのも、ファンとしては残念だった。

そして、政治家のおふたりについては、残念以下である。多分、彼らは政治家という職務を全うする能力がない。少なくともそれを自発的に表明しちゃった。だって政治家なんだよ?どこまでも議論や抗弁という「ことばで闘う」ことができなければ、議会という場にいる資格は半減する。

これはこどもっぽいでは済まされない。更に、それを指摘したメディアをついぞ見なかったのは、私がテレビも新聞も見る習慣がないことを正当化してくれた気がする。(本当はドラマや漫画や映画を見るので暇がないだけだけど)

結局、下手くそな切り札を切って凄んで見せたけれど、メディアも問題視しないし、周辺の議員さんたちはみんななんとなく「そこまで言うなら」と腰が砕けて、よし、種明かししてやろう!と張り切った反対派の議員さんたちには追い風が吹くどころか、すっかり凪いでいた。

そして問題は「全くなかった」ことになっていくのだ。達郎さんも、ジャニーさんの、かつての勝訴したけれど「性加害はあった」判決後みたいに、しばらくじっとしていれば霧は晴れてまたコンサートツアーは満席だろう。

この国では最後通牒も切り札も何度でも繰り出せる魔法の居直り法なのだ、多分。でも寺内貫太郎がちゃぶ台を度々ひっくり返しても家庭が崩壊しなかったのは、それが昭和というヴェールに包まれていた時代のことだ。ここからは、どうなるのかな。

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