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やっと自分を生きられる

ヘミシンク、という不思議なものに取り組んで一年が経った。
昨年は家庭内学習というCDをよく聴いて、日帰りの講習を受けたり、1週間の漬けこみ合宿的なものを受けてみた。今では家庭内学習CDを週末に聴く程度になった。ヘミシンクについての私のすごくざっくりした説明は過去の記事にあります。

ふと気づくと、当初のあの深いリラックス感が今のヘミシンク後には無い。無いと思ったら、実は深いリラックス感は日常化しているのだわ。なんて素晴らしい。

交感神経の説明でよく見かけるように、交感神経はアクセル、副交感神経がブレーキの役目を果たしてバランスを取る。私は、ブレーキなしのアクセルみたいな生き方をしていたので身体が悲鳴を上げてベッドに倒れ込むような毎日だった。
今、そういう人、いるんじゃない?

まぁ、そのせいで体を壊して今に至る。アクセルはすぐにかかる。集中力もある。でも、緩めるとか、リラックスが一番苦手。どうやったら体の力が抜けるのかわからなかった。他の言い方をすれば、体が力んでいるとか緊張しているという自覚すらなかった。疲れたこともわからなかった。

これは業病を発症し、一番痛みで辛い1日のうちの大半を眠っているような日々から、少し回復し始めて一日16時間くらいの睡眠になり、12時間、10時間と移行してきた10年の歳月が経っても変わらなかった。疲労状態がデフォルト、という身体感覚。

それが今では、疲れたなぁと思って一息入れることもできるようになった。自分が振り子状に揺れているな、とか、ニュートラルに戻ってきたぞとか、わかる。肉体的にも精神的にも、自分が客観的に見える。あら、今ちょっと焦ってるぞ私、的な距離が持てる。これは私にとってすごいことなのだ。

もうひとつ、ヘミシンクの影響で、私は単数でなく、私軍団という複数になった。重層的な一塊が私である。昨日の私、過去の私、今日の私、更に言えばもしかして過去生とかがあるならば、他の人格を生きた私もぼんやり重なって、グループでずりずりと進む。

ともすれば自分のことは後回しにしてしまう「母をやってきた仕事の責任者の私」だけでなく、複数の私がいるので自己犠牲や過度の貢献が避けやすくなった。ここは一気にやるべきなのよ、と前のめりになる私に対して、そうは言っても私の面倒は私が見るのよ?的な視座が入る。

また、傍に私の応援団という大きな味方がある。これは私が過去に愛した人々や生き物、物体であって、それらがもつれて一塊の団子になった毛糸のように温かく私を応援したり、助けたりしてくれる。そのような気がする、というだけだったら、多分ヘミシンクを始める以前の私も持っていた感覚だろう。

だが、今は確信があるのだ。私単独では力及ばないから、頼っちゃおう、と思うのだ。すると、その不安は手放せる。手放すことによって直接解決しないまでも、不安が拡大して生まれる新しい問題は起きない。ゆとりのある心は建設的な解決策を見出すことができる。まぁ、そんな論理なのだろうけれど。

簡単に言っちゃうと楽天的になったのね。「休まなきゃ」という病気発症後にあった恐怖を伴う義務感もだいぶ消えた。「こんなに休んでいて大丈夫だろうか」という現代人の代表みたいな不安も消えた。疲れがとれたらきっとやりたくてたまらなくなるさ。今では私は私を信用している。

ああ、やっと自分を生きられる。

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