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”みんなそう”は毒か薬か?

日常で生きていて、人と話をしている時に「みんなそうだよ」という人がいる。
みんなそうってのは、哲学の言葉を使えば相対化というのだけれどもこれが時として非常に危ない。

たとえばAさんが自分が昔辛かった体験を話したとする。
もちろんAさんの体験はAさん固有のものなのだから一般化はできない。
ここは大事。

しかし、それに対してBさんが「みんなそうだよ」と言う
Aさんの固有な体験がBさんの頭の中では一般化されている。

さて、この時、Aさんの固有性はどこに消えてしまうのだろうか?
もちろんAさんの記憶としての体験は存在するのだけれども
この会話上からは消えてしまう。

すなわちBさんはAさんの体験を量的な記号に還元したわけだけれど
私のように生の哲学を重要視している立場から見ると、Aさんの固有(質的)な体験としての生を圧殺しているように見える。

Bさんのような人は3パターンに分かれる
①単に相手の体験という質に入り込めるほどの感性と知性がなく、自分の経験の範疇で全てを理解したつもりで話す傲慢な人。
②自分もそれなりの大変な経験をしていて、Aさんにあなただけじゃないよ。
という意味で、「みんな」という言葉を使って彼を悲劇の微睡から一般の地平に引き戻して対等に話を進めようとする、ハードボイルド勇者。
③あまり相手の話に興味がなく適当なことを言っている人。

①と③はどうしようもないのだけれど
②に関しては非常に重要な点もある。

すなわち、個人の体験とその個人が現在、その体験に対して与えている解釈をできるだけ一般に共有可能なことであるとしようとする。

もちろん先程の例で言えばAさんの固有の体験の質を完全に一般化することは不可能であるが、その辛かった事なのか、感情なのか、一部分を取り出して一般化しようとする。

確かにAさんの体験に対する解釈があまりにも悲劇のヒロイン的である場合は、あんただけじゃないよ。という認識の変更の遠回しな要求は一定の意味がある。

要はこの言葉を言う際に、どれだけの”含み”があるかである。
みんなそうだよ(君の痛みはわかる、でもその痛みは悪いことだけではなく多くのことを気づかせてくれたのでは?あなただけじゃないぜ。俺だって質は違うけどその痛みはわかるよ。でもなんとか頑張って生きているよ。へしゃげていてもいいけど、ずっとへしゃげていてもダメだよ,,,,ETC)
含みは()の中を意味する。それが①と③の違いで、③は社会を包摂する上で重要である。

ただ哲学は”含み”という概念をとくに研究してこなかったので
含みという概念の重要さはまだ社会に浸透していない。

相対化によって相手の生の体験を圧殺してはならないけれど
時に過度な体験への固執と湾曲した解釈に対する柔らかなる批判として
「みんなそうだよ。」は何かしらの気づきを促す可能性もある。

よって「みんなそう」という言葉は毒にも薬にもなるという言葉ですので
”丁寧”に使っていくのがいいな。

生の固有の体験を消去されるとたまに辛い時あるよ〜!

でもコミュニケーションは失敗して学んでの繰り返し。
何かしらの参考になれば幸いです。

真田

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