本が必要になるとき

 読書の習慣はあるし、活字を読むことは嫌いではない。しかし、系統立てて読みこんだり、ある作家を追いかけたり、マニアックな本を手に悦に浸ったりするタイプではない。他愛のない会話の中に著名な作家の言葉や小説の一節が出て来ると、どぎまぎしてしまう。知ったかぶりをするのも恥ずかしいし、知らないことを露呈するのはもっと恥ずかしい。ひいてはそんな見栄っ張りな性格、それ自体が一番嫌悪することでもある。
 世に言われる読書家なる人は、圧倒的にこども時代から本が友だちであった人が多いように思う。過去をもう一度やり直すわけにはいかないので、その点でわたしはすでに引け目を感じる。
 「充実した、楽しい、学校や家庭生活があれば本は必要ない。自分は過酷ないじめを受け、家でも両親の喧嘩が絶えまなく、どこにも居場所がなかったから、図書室の本を読んでいるときだけ現実を忘れられ、生きることが出来た。」という、ある作家の一文を読んだとき、合点がいった。
 わたし自身のこども時代を振り返るに、貧乏ながら楽しい我が家であったし、勉強はあまりしなかったけれど、小学校は好きだった。放課後もカバンを放り投げ、日が沈むまで近所の原っぱで一緒に大きくなった子どもたちと遊んで過ごした。必然、本は漫画以外読まなかった。
 しかし、四つ上の兄は、作り出す遊びがおもしろいと見られていた人気者で、学校でも何かと目立っていたが、本もよく読んでいた。小学校一年のときから一人でバスに乗り、図書館でたくさんの本を借りて帰って来るというこどもだった。
 あるとき知らない人から母に電話があった。図書館の人に電話番号を聞いたようだ。
 「うちの子は全然本好きにならないのですけど、お宅ではどういう教育をなさっているのですか?」
 当時の世相を反映する“教育ママ”なる人物ではなかった母は困惑した。会社の賄い仕事や内職で忙しくしていたから、子育ては放任主義で絵本の読み聞かせなんてしたこともない。主義と書いたが主張があってそうしていたわけではなく、暮らしぶりがそうさせたにすぎない。
 という兄の例もあるので、学校や家庭が平和であっても本が好きになるこどもはいるだろうから、私が本を読まなかった理由を「恵まれたこども時代」に照らし合わせるのは無理があるようだ。

 それでも人生、太陽だけがいつもふりそそいでいるわけではない。元来好奇心旺盛で楽観癖があり、曇りや雨も、いつかは晴れるという経験値に支えられてきたが、気力体力が落ちてくると、そんな風に気持ちを切り替えられない時間が長くなる。

 そこでだ。やっと私にもやってきた。本を必要とするときがである。本に救われるという経験がである。孤独にさいなまれ、孤独とうまく付き合えないとき、古今東西の物語が、著者の、はたまた詠み人知らずの言葉が、目を閉じ、耳をふさぎ、息苦しさに体が硬直し表情が鈍化する私を、少しずつ解きほぐしてくれる。
 天真爛漫なこども時代があっても、そのまますくすくと心身ともに健康に生活が送れるとは限らない。人生は長い。翻って、自分の居場所がなく、生きのびる一日一日が厳しかったこども時代だったとしても、大人になって人としっかりつながれる生活を送ることは可能だ。
 人はひとに助けられもし、傷つけられもする。こどものいじめは大きな苦痛を強い、その後の人生に多大な影響を与えるが、おとなのいじめもそれに匹敵するとは自分が経験するまで気づけなかった。人好きな私が、新たな出会いが怖くなった。新たな場所での人間関係を構築することに臆病になった。「いま」(の状態)が良いわけではないのに、「いま」が変わらず続く方が、「いま」以上に悪くはならないだろうと、そのことだけにしがみついてしまう。
 
 本が友だちになったあとは、また、人間を友だちにしたい。根っからの読書家ではない私は、本の世界だけに浸ることも、さらなる息苦しさを生むことを知っているから。

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