大人

 ネガティヴケイパビリティという概念がある。ジョンキーツという詩人が、書簡の中で提唱したもので、「どちらでもない中途半端な状態、答えの出ないあわいの状態に耐える力」であるとされる。ジョンキーツはそれこそが、詩人にとってもっとも大切な能力であり、霊感とはそこに宿るのだという。宙ぶらりんで、停止し、それにあえて答えを出さないこと。これはとても難しいことであると最近とても実感している。
 我々はすぐに答えを出そうとする。友人に遊びの誘いをするのであれば、連絡が返ってこないどちらとも言えない状態に苛立ち、彼が連絡もなく遅れてくるのであればその中途半端な時間に怒りを覚える。答えが出ないならそもそも考えなければよかった。無駄な時間を過ごした。曖昧ではっきりしないなんて気持ちが悪い。そういった場面に我々は線をひいて、安心を求める。そして、そういった、ハッキリ、スッキリした世界を見て満足を得るのである。答えを暫定でも良いから出して欲しいという要望はよくよく耳にするものである。
 告白の返事をもしも保留にされたのであれば、その保留の間中、絞首刑台で震える囚人の気持ちを味わうだろうし、それならいっそ今すぐ殺してくれと叫びたくなるであろう。我々は答えのないことに耐えられず、それがたとえ間違っていようが、行動の指針を求めるのである。科学的論証がされているものはそういった要望にまったく適うものであるし、法律やルール等もそういった曖昧を排除する機構であるといえる。
 しかし、我々はそれに耐えるべきなのである。その曖昧は醸成され、じっくりと醗酵することを待っている。それは展望や目的、計画ではなく、ただそれらの答えなき問題に変化が起きることを待つことである。もちろん、ただ何もしないのではない。きたる回答は様々な因果の集約として、そこに現れる。その因果が私に集約するように礼を持って活動するのだ。暫定的な回答はその因果の切断である。切断は体よく切り取られた現実を作り出し、それに満足できることを強いる。
 満足は因果の集約として、じわりじわりと身体内部から醸成されるべきである。そして、そこに生まれるものこそが頷きである。我々は頷けないまま、そういうものなのだと自己欺瞞によって世界を切断する。切断されたそれを現実などと名づけて。そして、それを飲み込むことが大人になることなのだ等と履違える。
 私はそれが大人になることだとは到底思えない。諦めるでもなく、執着するでなく、ただ答えの出ない状態に頷けるように立ち振る舞う。それこそが本来の大人ではないだろうか。そこには誠実さがあり、決して自分自身を諦めていない不屈さがある。私は自分がいつか、この問題に答えを出すこと、頷くことができるという自負のもと生きていきたいし、もし仮にそれが残酷な答えであってもそれを呪わずに、前を向く人でありたい。
 曖昧を保留する、というと消極的に感じるかもしれない。しかし、そうではなく、私を、世界を信じるという最も崇高な態度である時、それは立ち向かうというに相応しいものとなるであろう。適当な答えをとりあえずで出す時、人は自分も世界も信じていない。問題を見ないようにして忘れようとする時もそうなのである。
 つまり、ネガティヴケイパビリティとは自分、世界への信仰のことではないかと思うのだ。決して悪いようにはならないはずだ、何故なら私は愛されるに値するし、世界も愛するに値するからである。その時、いかなる残酷も決して後悔すべきものではなく、語り直す契機を得るのである。
 もちろんそうは言っていられないような場面もあるであろう。耐え難く、折れてしまうときもあるに違いない。しかし、それすらも語り直せるように、記憶から消すのではなく、大切にとっておく。それこそが本当に大事なことなのではないだろうか。
 浄土真宗では全ては仏の導き、方便であるという。それはどのような苦難も仏が私に何かを気づかせようと用意したものなのだというのだ。他力本願の他力とは本来、他なる力、つまり外部の導きによって私たちは救いの契機を得るということなのである。
 例え、今私に答える力がなくとも、それはちゃんと私に何かを与えてくれている。その因果の集合地点で確かに私は美しいものに出会えるはずなのだ。大人とはどちらつかずの問題に信じることが出来る人のことであり、強いては祈ることが出来る人のことをいうのである。その難しさに私は向き合いたい。そしてそれは両性具有的で、陰陽的で、両義的な、つまり詩を読むという行為なのである。

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