遊びと人間

 ロジェカイヨワというフランス人が書いた「遊びと人間」という本がある。あとがきにこのように書かれている。「私が人間の営みは全て遊びであるというホイジンガの仮説に同意しながら、この本を書いたのはどうしても認められない点があるからである。それはホイジンガは聖なるものも世俗の遊びのひとつなのだと貶めようとしている点である。私は聖なるものと遊びはやはり別物であると考える」。
 カイヨワは聖なるもの、人が命を賭してまで守ろうとするそれを児戯の遊びと同一とすることができなかったのだ。例え、社会制度、法律、裁判、戦争、それら重大なことがらを遊びとして捉えることはできても。
 カイヨワが言うには「遊び」「聖なるもの(儀礼、儀式)」「世俗(生活)」は同じ構造を持っている。3つはともに「ルール(規則)によって成立している」という構造だ。例えばサッカーなら、ボールに手で触ってはいけないという規則がサッカーをサッカーたらしめているし、仕事ならば納期を守らなければいけないことが仕事を仕事たらしめている。聖なるもの、儀式も禁止事項がそのものの輪郭を縁取っているのである。何人たりとも触れてはいけない聖なる王冠は誰しもが触れようとしないゆえに聖なるものとなりうるのだ。
 このようにルールが、そのものを形作っていると言う点でこの三つは同じものだと言える。それがホイジンガの主張だという。ではカイヨワは何を付け加えたかったのか。それは構造が同じでも、大きさや位置が違うのではないかということである。
 例えば世俗という箱があったとしよう。その中に小さな箱を作る。これが遊びである。箱とはルール、規則の比喩である。そして、カイヨワが言いたいのはこの箱の中の箱を「遊び」と呼ぶ時に、「聖なるもの」はそれに当てはまらないと言うことだ。「聖なるもの」は世俗という箱より大きな箱ではないかというのである。聖なるものの中に世俗の箱があり、さらにその中に入っている箱として「遊び」があるのではないか。「聖なるもの>世俗>遊び」という関係である。
 聖なるものはここで世界観、価値観といって差し支えないのではないかと思う。世界観、つまり何が正しくて、何が悪であるか。この前提があるから世俗は成り立つ。そして、安定した生活があるからさらに限定的な規律である「遊び」は成り立つのではないか。ゆえに「聖なるもの」=「遊び」としてしまうのは乱暴すぎる、というのがカイヨワの主張なのである。
 確かにその通りであると私も思う。遊び、世俗、聖なるもの、この三つは明確に立ち位置が違うであろう。階層化して考えるのであれば、奥まったところに聖なるものが背景としてあるイメージは非常に私の実感に近いものである。
 しかし、ここからは私の考えであるが、このホイジンガの考える「全て遊びから生まれる」とカイヨワのいう「階層性」はどちらか一方を取らなければいけないものであろうか。両方の考えを統合することはできないだろうか。つまりカイヨワはこの階層構造を固定的なものだと考えているが、そうではなく流動的で、循環構造を持っていると考えることはできないだろうかということである。
 聖なるもの(世界観)のもと世俗(生活)が営まれ、その中で遊びが発生する。しかし、その遊びは限定的なものであったはずが、没入していくことによって、聖なるもの(世界観)に加わってしまう。そしてその聖なるものの元、世俗は変更されて、また遊びが生まれ、、、。このような循環構造として捉えるのであれば「聖なるものは遊びから生まれる」という主張も「聖なるものは遊びではない」という主張も両立できるのである。
 おそらく、ひとはどの階層にもとどまることができないのである。とどまった瞬間それは運動の停止を意味し、運動の停止は熱量の減少を意味する。ゆえに、移動していくことを宿命づけられている。世俗が安定していると遊ぶのはそのためである。遊びは統御された運動であり、すぐに中断し、世俗に戻ることができるのである。世俗の熱量の維持のための遊びへの移動は安全な方策なのだ。しかし、遊びは同時に没入を促す装置でもある。没入が極まるとそれは世界観という、その人間の基盤となってしまう。そして、それは聖なるものの変更であり、世俗を変えてしまうのである。
 この三すくみのジャンケンのような循環構造で捉えるのであれば社会が永遠普遍であることは宿命的に不可能であることが言える。これは私の実感にかなうものである。仏教では全ては流転するととくが、私がこの本から考えたのはこのような諸法実相なのである。
 であれば、私たちは永遠を求めるべきではない。その時その時に出会う、偶然という必然を惜しみながら味わうしかないのである。そして、それは私が映画メッセージ(原題arrival)を観ていたく感動したこと、まさにそのものなのだ。そう考えると、ホイジンガのいうホモ・ルーデンス(遊ぶ人)という人類への呼称はなんとも味わい深いものではないかと思う。
 

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