モノになりたい。なれない。

 私たちはつい「モノ」になりたがる。「モノ」は自らの中に能力をみる。例えば、コップ。コップは水を溜めることができる。これはコップの能力だ。「モノ」は自らの形態に能力を宿している。
 しかし、それは使用する人がいてはじめて発揮される能力である。「モノ」はそれを利用する誰かを想定する。「モノ」には意志が存在しない。意志を使用者に委ねる。「モノ」は上手く利用されること、と自らの能力がセットになっている。「モノ」が自らを最大限に表現しているとき、それはそのモノを使用している人がモノの性質を把握、理解しその形に合わせて使用しているときに他ならない。モノは使用者の行動を形態(能力)によって導く。
 そして、そのためには「モノ」は形を固定化していなければならない。コップがたまに丸くなったり、とんがったりしたら私たちはそれを使えない。使うためには形が一定であることが条件となる。私の形はこうだ、それをわからない、わかってもそれをどう使えばいいかわからない、そんな相手には私の能力は表現されない。そのように考える。利用、つまり意志を委ねるに足る相手を待ち続ける。
 私たちはそのような「モノ」になろうとしていないだろうか。私たちの嫌悪とは、「モノ」になりきれない、つまり形が変化せざるをえない、私たちの生そのものに向けられていないか。
 この「使用者」と「モノ」の関係モデルで能力を捉えること、ここに私たちが自己嫌悪する原因があるのではないかと思う。
 私たちはこのモデルで能力を考えることをやめるべきだ。つまり自らの形態に能力が内包されてると思うべきではない。私たちは能力について、もしくは人との関わりについて、道具の使用のアナロジーから脱するべきなのではないか。
 お互いに変化し、かつその中で能力は発現する、そういった関係性のモデルを模索しなければならない。それは動的で、運動の中に存在を見出すものでなければならない。相互的なモデル。主体と客体が渾然一体となり、まさに同期するような、音楽のような関係性。
 「モノ」でいてはならない。そして、「使用者」でいてもならない。使用者は相手をモノとして見なければならないため、相手をモノ化する。そこにハラスメント、暴力は生まれる。使えない道具だから使える形に加工しようという欲動である。
 「使用者」と「モノ」の関係は男女の価値観のステレオタイプにも付合するように思う。ひいては、SとMのような性的倒錯、能動と受動の観念にも結びつくように思う。「モノ」化は社会というシステムから要請されている気もするし、「使用者」は意志こそ力であり、能力とは意志から生まれるものであると考えている気がする。双方、近代的個人を前提に置いている。
 どちらにせよ、私たちはこの道具のアナロジーから抜け出すことによって、新たな関係性を築けるのではないだろうか。モノじゃなくなるために使用者になるのだ、これはまさに同じ迷宮の内部でミノタウロスになるか、哀れな生贄になるのかの違いしかない。迷宮という舞台の上では悲劇か英雄譚以外の物語は用意されていないのである。

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