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虐待後遺症はこころの問題だと思っていた


 児童虐待が及ぼす影響は甚大で、noteの記事ひとつで書き切れるようなことではないですが、今回は「繋がっているという感覚」という観点で少し話してみようと思います。



 殴られ蹴られること、触られること、心を支配されること。虐待にも様々な種類がありますが、暴力的な侵入という点で共通することが多いように思います。そのような侵入は人格を無視して行われ、人権を悉く否定し、根源的に何が快で何が不快かを混乱させます。そうやって人生の早期に、基本的で健全な五感を奪います。

それは、こころとからだが、わたしと宇宙が、わたしと歴史が、生き物と生き物がたしかに繋がっているという感覚を滅茶苦茶に破壊します。普段意識されないような基本的な繋がりの感覚を持たない人は、より混沌とした予測不能な世界を体験し、安心や安全を知りません。

題名のとおり、これまでの私は、熾烈な虐待では身体的な後遺症が残ることもあるけれど、不幸中の幸いでそうならなかった場合、児童虐待は主に脳と精神機能に重大な悪影響を与えるものだと考えていました。しかし、ポリヴェーガル理論や児童虐待の治療法についての書籍を少しだけ読んでみて、精神は神経系と密接に関わり合うこと、故に虐待の後遺症には身体的なアプローチが有効であることに納得しました。
そして、今まではよく分からなかった普通とは違う感じ方や解離の症状が、この「繋がっている感覚」の障害なのだ理解しました。



 幼い頃からさまざまな自律神経失調症の症状がありました。端的に言えば、体がきちんと機能しません。わたしのからだは常に私のコントロールできないところにあって、勝手に力が入ったり脱力したりします。私の内臓は、過剰な交感神経と副交感神経の影響をジェットコースターのように受け続けて疲弊しています。

あまり親しくない人とのからだの接触、そして親しい人とのこころの触れ合いがとても苦手です。それは個別のトラウマのフラッシュバックではなく、身体的にも精神的にも自己に侵入されるような気がするからです。

からだの痛みに鈍感で、怪我をしても気がつかず靴や洋服を血で汚してしまいます。

動物を触っても、いまいち自分の手が本当に触れている感じがしません。友人と話していても、いまいち自分が本当に彼女と話していると思えません。

私の人生が今まで21年間あって、幸運にも何事も起こらなければ来月もそして来年もこの先に続いていく、というようには思えません。

私が今たしかにここにいるという感覚がありません。

森や海などの自然に癒されますが、同時に圧倒されます。自分が存在するという感覚がより弱くなります。

そして、コロナ後遺症として慢性疲労症候群になりましたが、根本的な原因にこの「繋がりの感覚の障害」、つまり神経系の異常があると確信しています。

(しかし、慢性疲労症候群が「精神的なもの」だとは思いません。虐待の衝撃が実際に身体を弱らせてあらゆる脆弱性を持ったために、感染症をきっかけとして普通の人では滅多に起こらない免疫系の異常が起きた、または顕在化したという考えです。例えその関連性が強くても、数値で自明な自己抗体値の異常をひとつ飛ばして、トラウマ体験やそれに伴う神経系の変化を主因とすることは、完全に医療者の怠慢だと思います。そしてそれは、病気や闘病、患者に対する様々なミスコンセプションにつながると感じます。)


 これらを改善するためにやってみたこと

・繋がりをゆっくり丁寧に確認してみる
ー乗馬をする
ーセラピードッグに触る
ー路上生活者におにぎりを渡すボランティアに参加する

・言語化できないからだの声を聞く
ーお風呂で自分の体を見られない自分を受け入れる。
ー倦怠感で動けなくなっても焦らない。それが2週間の寝たきり生活でも、からだに必要なものだと理解する。
ーちゃんと食べられなくても焦らない。食べたいものを食べたい時に食べて、命が繋がればオッケー。

・自分を労わる
ーお風呂から上がったらボディークリームを塗る。(塗れない時は無理をしない)
ー美味しいものを食べる。

・心揺さぶられる体験を自ら探しに行く
ーくだらない、なんも勉強にならないようなドラマでも観る
ーあと先考えず貯金を崩して旅行に行く(途中で帰ってきてしまってもお金を無駄にしても許す)

最近は自然と完璧を求めなくなりました。
どうせリアルな感覚がないのに旅行に行ってもお金の無駄だだから治ってからにしようとか、ちゃんと食べないといけないとか、カウンセリングで扱わないといけない問題を整理しようとか。




 私は、周りの皆んなと同じようには生きられません。人生は取り返しのつかないことばかりだからです。良い企業への就職も、結婚も子どもを持つことも、一般的な「幸せ」は私には手が届きません。

それでも、宇宙との、大地との、いきものとの繋がりを見出せれば、それがひとつの愛でありまた幸せなんだと思います。虐待を受けなければ、多くの人が親との関わりの中で当たり前に受け取った自然な感覚を、必死に探し出す必要はありませんでした。しなくても良いはずの苦労をするのは辛いけれど、どうせならその過程を目一杯楽しもうと思います。

(繋がりを大切にするということはスピリチュアルなことですが、新たに特定の宗教を信仰するようになった訳ではありません。)

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