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引き寄せない法則のススメ

序章として

「引き寄せない」
この言葉に多少なりとも興味を抱き、この投稿をお読みになる皆様。皆様にとって、この出逢いが実りあるものであることを期待してやみません。

それぞれが興味を抱いた背景に、どのような心情が含まれているかは様々かと思います。
「実践しているが上手くいかない」
「引き寄せなんて空想」
「もっと他のやり方がある」
等々でしょうか。それらの前提を踏まえつつも、例えどのような心情、状況の方であろうと、必ずやお役に立つであろう事柄をお伝えしたいと考えています。

「引き寄せない法則」は、いわゆる「引き寄せの法則」を否定する趣旨のものではありません。
その前段階、あるいは並行して気を付けることが有りそうだという視点の提示です。

さてこの先、投稿を重ねてゆく上でお伝えしたいと考えていることをざっと項立て致します。

  • 「引き寄せ」の基本認識

  • 望まない現実を引き寄せないために

  • 私たちは「私」をどう捉えるべきか

  • 「気付き」の大切さ

  • 「絶対幸福」と「相対幸福」

  • 「言葉」の意味とコトダマ(言霊)

  • 生贄と犠牲と現代社会

  • RAS(網様体賦活系)HAC

  • 幸福を引き寄せる習慣

こんな感じです。

特にはじめの段階では、どちらかと言えば日々の平穏や充足が確かなものとなるよう、出来得る限りのお手伝いをさせて頂く、それが私の基本的スタンスとなります。

初めての投稿につき、堅い感じの幕開けではありますが、扱うテーマが少々ナイーブな面もございますし、失礼の無いように。

また、私は皆さまに対し何かしら治療を施したり、カウンセリングを提供したりという立場にはございません。
多くは自身の体験(これは人並外れていると思われます)からの気付きをシェアし、サポートする。
そうした思いです。

全体としては、長い長い話となります。
ご縁を得て、お付き合い願えれば幸いです。


「引き寄せ」の基本認識

私自身は、いわゆる「引き寄せの法則」の実践者です。そしてある強力な引き寄せ体験を有しています。

簡単に申せばその実体験を皆様にお示しする、ということにはなりますが、そこは人ひとりの人生然り、一筋縄では参りません。

仮に、私の人生が半ばであるとして、思えば若い時に描いた理想や夢は、ほぼほぼ実現出来ています(まだガンダムには乗れていませんが)。
人並み以上の実績と幸福、ともすれば分不相応とも言えるものを一度は手にしました。

そして、見事なまでにそれら全て、一切を失うという悲惨な経験をし、時を経て現在に至ります。
そのことを運、運命と見切るのであればそれまでの話。
身に起きた不幸を恨み、血を流さんばかりに嘆いたことも数知れずです。

しかし冷静に振り返ると、良きに付け悪しきに付け、私自身の思考や判断は多少なりとも結果に反映されていたのが解ります。

そう、確かに引き寄せていました。

ならば、こうした経験をこれからの人生に活かすことは出来ないか。それも、誰もが解る体系的なものとしてです。
その思いから私の新たな旅は始まります。

さて、まずは引き寄せについてざっと定義致します。
一般的には「思考は(が)現実化する」という概念で語られる、ある種の取組みと申しましょうか。
目的は夢の実現、各々にとっての幸福の実現となります。

それを実現してくれるのは、多くの部分で「潜在意識」と言われる、私たちの誰もが有する機能とされています。
この「潜在意識」についても、やや言葉が独り歩きし、意味が分散しがちな昨今です。これについては稿を改め、しっかりと認識を共有したいと考えています。

まずはその界隈の書き物や動画などを拝見すると、例えばアファメーションやメソッド等、様々な方法を実践したとして、それが奏功したかそれ以外かという分類、もっと簡単に言えば役に立つか否かという、排除的な文脈で語られがちです。

つまり「手段」が適切か否かという視点です。しかし、一番大切な視点はそこにはないと私は思います。

少し分解しましょう。ちょっとだけ仏教的な表現をお借りします。

引き寄せとは言わば「因果応報」の概念です。語感としてはちょっとネガティブに響きますが、ここでは狭義のものとして捉えます。
シンプルに、全ての事柄には「因(原因)」と「果(結果)」があるとする概念です。

引き寄せにおいては、「因=私」として捉えます。これはご理解頂けるかと思います。
全ての原因は「私」にあるとし、「果=現実」を生み出そうというものです。そして、「因」と「果」の間に何らかの特別なプロセスを置くことで、何か特別な結果を得るというような感覚で捉えられがちです。
そこにちょっとした誤解があると、私は思うのです。

改めて言葉の意味をシンプルに捉えてみましょう。
「因果」という言葉の「因」と「果」の間には何もない、というか全く重視されていない。
言い換えるならば極論、「正しい因」があれば、途中どんなプロセスを辿ろうとも「正しい果」が得られるということなのです。
つまるところ、引き寄せの本質は「正しい因(私)」を定める、ということに尽きるのではないでしょうか。

言ってしまえば単純なのですが、実のところこの先が一番難しい。
それはなぜかと言えば、各々にとっての「私」というものが最もややこしく、解りにくく、複雑であるからに他なりません。
それが、私が定義するところの「引き寄せの法則」の本質
です。


「私」は多元的な機能で成り立っている

「正しい因(私)」とは何か。
この場合道徳的、戒律的、或いは法律的な意味での正しさとは少し異なり、あくまで、ある目的を実現する上での正しさとなります。

それを知るのに一番の参考となるのは、「何が災いしたか」という失敗例です。
まずは少ないサンプルではありますが、私自身の、望まない事を最悪の形で引き寄せたという強烈な体験、いわば失敗譚の中に、多くの皆様と共有すべきエッセンスが少なからず含まれている、そう思います。

詳細は後に置くとして、一般に言われるところの「引き寄せの法則」(成功への道程となるような)に、実のところ万人向けのものは多くないと感じます。
反面、失敗や苦難に陥る「法則」には共通点が多い、と私は考えるのです。

これも「因=私」という存在のややこしさに端を発するものです。
「引き寄せのため」と、とある手段の一つを実践し、難渋したからと言って「そのやり方、捉え方は正しくない」と手法的な切り口のみで語るべきものではないのです。

私たちの内面世界は複雑、かつ多機能であり、それらが折り重なり「私」という一存在を成しています。

ポジティブでオフェンシブな「機能」が優位な状態。
ネガティブでディフェンシブな「機能」が優位な状態。
それぞれがおとなしく平穏な状態。

結果的に認識できる状態は一つですが、それぞれの「機能」自体は常時、並列的に存在し、働き続けています。その日その時、どの機能が優位であるか、それだけのことです。

それらの機能に偏りが生じたり、バランスを失うことで、往々にして不適切な行動、事象を生み出すこととなります。
つまり、ある目的に対して本来あるべき「正しい私」を見失ってしまうのです。

皆様がより良き生涯を送るためには、まずは望まない現実や不幸を「引き寄せない法則」を知ることが、好循環を生み出すための第一歩となる。

そのためには、「私」が何をするかという単元的な見方ではなく、「私の中の」どの機能がどのような役割を担うのかについて、より具体的に知る必要があるのではないか、そうした思いを込めて表題を定めました。

重ねて、他の発信者の方々が言うところの法則なり、メソッドなりを否定する意図はございませんし、私自身も参考とさせていただいているものは沢山あります。私が重視するのは共通して存在するベースの部分なのです。

他の引き寄せ論の多くは、例えば「理想と一体化する」「既にあると認識する」「実現した時の感情を持つ」など、つまりは今の自分の状態を良くするというところに結論が及びます。

そして多くの人は「それができないから今が苦しいんじゃないか」となり、禅問答のような解説の迷宮に入り込みがちのようです。
それ故私は、「今の私」を如何に良い状態で保つか、そこに重きを置いてお話を進めさせて頂きたいと考えております。

ここまでの内容で多少なりとも感覚が掴めたとしたら幸いです。

さて、ここからより深い部分へと分け入って行きますが、ご留意願いたい前提事項がございます。





災害と人災と私たちの意識

この投稿以前に、私としては初となる投稿を1月1日に用意していたのですが、見送った経緯がございます。理由はやはり石川能登の大震災です。

東日本大震災を北東北の地で体験した私にとって、よりによって寒冷押し寄せるこの季節の震災が如何に困難なことか明確に理解できます。
そして、初感を遥かに超える犠牲者がおられること。そこに心からの哀悼とお見舞いを申し上げるしかありませんでした。

それだけに「生きる」ことを深く扱う自身の投稿があまりにシンクロし過ぎており、公開するのを逡巡しました。
そうしたこともあって、投稿内容全体の組み立てを変え、今お読みいただいている本稿へと差し替えております。

この度の震災に対しては、本当に心からのお見舞いを申し上げます。そしてまさに、「現実を引き寄せる」という機序に対し、注意深く扱うべき事象が私たちの眼前に横たわります。

それは、私たちが語るべき「引き寄せの法則」には一定程度の範囲があるということです。

ひとつはこうした自然災害に関して。
「すべての現実は私が創り出している」とは引き寄せ界隈の常套句ですが、仮に引き寄せの法則を、自然現象も含めた森羅万象と個人との関係に置き換えるなら、こうした災害も私たち個人が引き寄せた、という結論になりかねません。しかしそれは明らかな傲慢です。

避ける、備えるといった面にはある程度作用するにせよ、天災が起きるか否かという、正に人事を超える事象そのものに対し、私たち人間の思考や意識が作用するということはありません。あるとするならそれは「人災」ということになってしまいます。

つまり、引き寄せの法則とはあくまで、私たち人間が人間として、その関係性や社会の枠組みの中で論ずるべきものであり、怪力乱心、超常的な力を扱うものではないのです。はじめにそこは強くご認識ください。

ならば人災はどうなのか、となります。

奇しくも翌二日、羽田空港での未曾有とも言える航空機事故がありました。
テレビ画像の衝撃としては、9.11アメリカ同時多発テロを想起させるもので、私としては、あらゆる「嫌な予感」を覚えました。
結果としては事故。だから良かったなどということは無く、残念ながら犠牲者もおられる、典型的な人災と言えるものです。
では、これは何者かが引き寄せた悪しき結果かと言えば、それも明らかに「No」です。そこも合理的に説明する必要があります。

航空機含む公共交通機関、その他様々な乗り物はみな、基本的に安全であることを前提に利用します。航空機は特にそうでしょう。一定程度の信頼がなければそもそも乗らない訳です。
そういう意味では、400名に及ぶ乗客乗員全てが「無事」であることを確信している訳で、その時点でこれ以上ない引き寄せの法則が完結しているはずなのです。
しかし事故は起きた。

もう一つの視点も提示致します。そしてこの視点は、引き寄せの法則を正しく理解する上で非常に重要となります。
航空機には、搭乗する人のみならず多くの人が関わっています。その中でも特に乗員、そして管制に関わる人、滑走路含めた施設全体の保全に関わる人、空港内の消防や救急に関わる人。
この方たちは日常の業務にあたる際、必ずあることを想定し、そして訓練を重ねる。それは言うまでもなく事故や災害、事件といった非常事態に他なりません。
これを、巷に溢れる引き寄せのロジックに当てはめるとこうなります。
「潜在意識は物事の肯定否定を区別しない。だから『事故が起きたらどうしよう』とか考えると『解りました。事故が起きたらどうしようという状況を用意しますね』と理解する。だから事故なんか絶対起きないと信じ、安心と一体化するのが大事なんです」こんな感じです。

物凄い違和感です。

言うなれば、もしかしたらこういう事故が起こる、と具体的な想定をし、危機感を持って訓練なりシステムを備える行為を繰り返すこと自体、強力な引き寄せ作用を発していると断じることになりかねません。やはり、これも大きな誤認であり、傲慢につながるものです。

ここで何らかの「引き寄せ」が機能したとするならば、少なくとも民間機側の乗員乗客全てが助かったという、目を見張るべき事実にこそ意識を向けなくてはなりません。遠目に見てもあの状況は危機であり、その対応力に震える思いでした。

先ほど触れたように、その背景には航空機運行に携わる全ての方々が、こうした万一の危機を想定し、訓練し、英知と勇気を持って対応されたという事実があると想起します。そしてそれは、航空機は安全であると信じる乗客全ての信頼に裏打ちされています。

ここで整理しますと、危機や事故、苦難を想定しそれに備えるという積み重ねは、私たち人間にとって必要不可欠なことだという厳然たる事実が伺えます。
従って、引き寄せ界隈で一般に語られがちな「ネガティブな想定や言葉使いは、ネガティブな現実を引き寄せる」という切り口は必ずしも正しくない、これが結論となります。
何が違っているかと言えば、「役割の違い」を明確に語っていない、そこに尽きます。

ここで言う役割とは、本質的に私たちの脳や思考は、安全なり安心な状態を確保し、維持するという機能が相応の比率を占めるということです。それが健全に機能することは、個人の日常においても極めて大事なんです。
一方で、それはあくまで機能の一部であって、他の様々な機能も並行し健全に働いていることが望ましい。私たち個々の健全さは、万事がそうであるように、バランスの上に成立しているのです。

これも乗り物である車に例えてみます。
「私という車」が不調である、うまく動かないとしましょう。
車であるならば通常、車のどの部分が不調なのかと調べます。そして必要な修理なり部品交換なりを考えます。私たち人間も身体的な不調であるならば似たようなアプローチで対処します。

しかし、脳や思考といった領域、翻って人生そのものが順調か不調かという観点に立つと、なぜか「私はダメだ」「私はイケてる」といった単元的な視点になりがちです。

そう、違うのです。私たちの脳、あるいは自我を構成するものにも同様、ブレーキであったり、アクセルあったり、駆動系であったりと様々な機能があり、そのどれが不調であるかという認識が必要なのです。

改めて事故、ひいては人災について触れますと、それ自体は残念ながら人間が引き起こした事に違いはありません。ただし、誰かの思考や意識が引き寄せたという視点で語るべきものではない。

本来、安全性や利便性、そして効率性の観点から合理的に機能していたはずのシステムに何らかの綻び、エラーが生じたことによるもの、そのように捉えるべきものなのだと言えます。

今回、実際の事件や事故を引き合いに出し、「原因はこうだ」と断じることは私の目的とするところではありません。あくまで、私たちの思考や意識が、現出する事故やトラブルに対しどのように関与するか、という視点の提示です。そして申し上げたいのは、こうした類の綻びやエラーは往々にして私たちの内面においても発生するということです。


本来、安全性や利便性、そして効率性の観点から合理的に機能していたはずの「私の中」のシステムに何らかの綻び、エラーが生じたらどうなるのか。
そう、仕事上の大きなミスや人間関係での重篤なトラブル、あるいはうつ病等の精神疾患等にすらつながりかねません。
事実、私自身がそうであったという話を次稿ではさせていただくこととなります。

さらに、今私たちが直面している大きな問題に「戦争」がありますが、現段階では、私たち日本人の「生の感覚」からは少し離れてしまう感があります。機会を変えて触れることがあれば、と思います。


本稿のまとめ

ここまで触れたことをいったん整理しましょう。本稿でお伝えしたいこと、

  • 「引き寄せの法則」は存在すること。

  • 正しい「因(私)」に対し、正しい「果(現実)」が伴うこと。

  • 「因(私)」は望まない現実を引き寄せる方向にも作用すること。

  • そのため、「引き寄せない」という視点を新しく持っていただきたいこと。

  • どちらの方向にも、引き寄せの力が及ぶ範囲には限りがあること。

  • 少なくとも、天災や大きな事故などの事象に引き寄せの概念は通用しないこと。

  • 本来は安全や安定、効率のために働くシステムに綻びが生じた時、大きな問題につながり得ること。

  • 私たちが安全で安心な日常を具現化しようとする能力と、夢や理想、豊かさを実現しようとする能力は必ずしも一致しないこと。

以上となります。それぞれについて、しっかりと認識を共有するには更なる説明が必要です。特に後段の2項目については違和感を覚える方も少なくないはずです。「引き寄せと関係あるの?」といった。
しかし大有りなのです。

私たち皆が共に有する、危険を回避し、安心を求め、安定を保とうとする機能。これを私は「引き寄せない力」と定義させていただきます。
一方、思考を現実化し、理想を手繰り寄せる力を一般に言う「引き寄せる力」と定義させていただきます。

これら二つの力は、どうやら本来異なる脳の機能に端を発するものです。脳科学等の知見から、といった説明は私の手に余る部分(努力は致します)ですが、体験上そのように区分することが最も説明がし易いのです。

従って、「引き寄せない法則」すなわち私たち人間が原理的に有する力、おそらくは普段最も何気なく利用している力。この働きをより良く理解し、制御することこそ、より良い人生への大切な一歩になる。そのように信じております。

以上が序章となります。「引き寄せない法則」の意図するところか多少なりとも伝わったとすれば幸いです。
もちろん、この旅はまだまだ続きます。深遠で複雑、愛おしくも時に残酷な、私たち人間の内面世界への旅です。
是非とも共に旅していただき、何かしらの気付きを手土産に、良き日常を過ごしていただければ、と存じます。

***感謝***
ここまでお読みいただき有難うございます。
次稿は「私たちは船」と題してお送りします。



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