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左利きへのホスピタリティ

あなたは右利きですか?左利きですか?

どちらともいえない、という人もいるのではないでしょうか。
かく言う私も、どちらともいえないうちの一人です。

 私は動作によって利き手が異なる。例えば、文字を書くのは右手、箸を持つのは左手といった具合に。このような人のことをクロスドミナンスと呼ぶそうだ。クロスドミナンス。かっこよすぎないか?思わず使いたくなる。一度でいいから、「私はクロスドミナンスです」と言ってみたい。残念ながら、まだそのような機会はないが。

両利きとは違うのかと思われるかもしれない。両利きはどちらの手でもあらゆる動作を行えることを指すため、クロスドミナンスとは異なる。

 クロスドミナンスが生まれる原因として多いのが、左利きから右利きへの矯正である。私もそのケースで、もともとは左利きだった。だが、小学校入学と同時に、文字を右手で書く特訓を始めた。利き手ではないほうの手だと、思うように力が入らず、線をまっすぐに引くことすら難しい。初めのうちは蛇のような文字しか書けず、かなり苦戦した。毎晩泣きながら練習をしたものである。

 右利きへの矯正については賛否が分かれるところだが、私自身は矯正したことを後悔はしていない。文字が書きやすくなったのは確かだし、副次的だが、厳しい特訓をやり遂げたおかげで、頑張りぬく力がついたような気がする。しかし、自分の子どもが左利きだった場合に同じことをするかというと、しないだろう。成長するにつれ、多少不便に感じることは出てくるだろうが、左利きのままでも十分生活できると思うから。無理に矯正するほうがストレスを与えかねない。

今でこそ、矯正は一般的ではなくなったが、私より上の世代では矯正した人がかなり多いと思われる。おそらく私の世代が矯正をよしとされた最後の世代だろう。

 矯正した結果、私は日常のほとんどの動作を右手で行うようになった。一方、変わらず左手で行う動作もいくつかあり、それらのほとんどは矯正する前から行っていた動作だ。つまり、矯正後に覚えた動作はほぼ右手で行う。

ところが、まれに例外があって、「そういえばこの動作は左で行っている!」と新たに発見することがある。いまだに自分の利き手の全貌が判明しておらず、日々気づきがあり、おもしろい。ちなみに最近気づいたのは、掃除機を操る手である。

 
このように、私はクロスドミナンス生活をわりと楽しんでいるが、不便に感じることももちろんある。
前述のように箸は左手で持つため、飲み会の席などでは座る場所に気を遣う。左端に座らない限り、右利きの人と肘がぶつかってしまうからだ。
運悪く左端をとれなかったときは焦る。そのようなときは、ぶつからないよう細心の注意を払いながら飲み食いすることになるので、常に一定の緊張を強いられ、心から楽しむことができない。また、私はお酒を飲んでもあまり酔わないタイプなので、お酒の力を借りて開放的になるということも難しい。
(現在はコロナの影響で飲み会に行かなくなったため、このような苦労は久しくしていないが。)

小さなことではあるが、積もり積もればそれなりのストレスになる。左利き(この場合は箸を持つ手が)である人の多くが経験していることだ。そのため、左利きの友人と食事に行くときは気を遣わずに済むので、とても楽。
しかし、カウンターに通され、自分の左側に座っているお客さんが右利きだと状況が一変する。カウンターでも、できるだけ左端を選びたい。

 
先日、ランチを食べに行ったときのこと。注文した定食が運ばれてきたとき、店員さんが次のように尋ねてきた。

「お客様は右利きと左利きのどちらですか?」

思いもよらない質問だったため、私は面食らった。そんなことは初めて聞かれた。

「左利きです」

動揺しながら答えると、

「承知いたしました。」

と言って、店員さんは箸を置いてくれた。箸の持ち手を左に、箸先を右にして。

なんというホスピタリティ。

いつもなら、当然のごとく右に向けられた持ち手を、いちいち左向きに直して使っていたが、お店側が客の利き手に合わせて箸を置いてくれるとは。あまりのことにとても感動した。この出来事だけで、私はこのお店のことを気に入った。うれしい気持ちで箸をつけると、料理もとてもおいしく、胸がいっぱいになった。

この心遣いを考えたのはどなたなのだろう。スタッフさんの中に左利きの人がいるのだろうか。それとも、お客さんから要望があったのか。いずれにせよ、利き手を尊重されることがこれほど嬉しいとは。今まで知らなかった。

知らず知らずのうちに、マジョリティである右利きの文化に私自身も染まっており、箸の位置などさほど気に留めていなかったが、自分に最適化されるとこんなにも快適なのか。

無意識のうちに、世の中は自分に合うようには作られていないと諦めていた。ないものとされることに慣れきっていた。存在を認めてもらえることを、こんなに嬉しく思うほどに。

 いまだにないもののように扱われ、苦しんでいる人は多い。利き手どころではなく、尊厳にかかわることで。この国ではまだまだ遠く感じるが、当たり前のように誰もが尊重される日が早く来てほしい。

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