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「一人っ子はさびしい」と言ってほしい大人たち

「きょうだいがいないとさびしいでしょう?」

子どもの頃、親戚や近所の大人たちから幾度となくかけられてきたセリフだ。

このように大人が声をかけてきたとき、どう回答すればよいか。私は物心がついたときから自然と心得ていた。


「うん、さびしい。きょうだいがいたら、もっと楽しいだろうね」
笑顔でそう答えるようにしていた。
 

しかし、私は生まれてこのかた、一度たりとも、「一人っ子だからさびしい」などと思ったことはない。

両親はたっぷりと愛情を注いで育ててくれたし、遊び相手にもなってくれた。
そもそもきょうだいがいる状態を知らないので、その状態と比較してさびしいかどうかなんて判断できるはずがないのだ。
一人でいることが当たり前なので、当然一人遊びも上手くなり、さびしいと感じる暇などなかった。
 
今でこそ一人っ子は珍しくないが、当時はまだ少数派で、小学校のクラスでは私だけであった。
そのため、周囲の大人の多くは複数の子どもを育てており、「異端」である私に対して、冒頭のような言葉を投げかけてきたのである。
言われるたびに、「やれやれ、またか」と内心辟易していたが、笑みを湛えて応じていた自分はなかなか立派だったのではないかと思う。
ある意味、その大人たちより私のほうが大人だった。
 

私は一瞬いらつくだけですんだが、気の毒なのは母であった。

「もう一人作らないの?」
「きょうだいがいないとさびしいだろう」

といった類のセリフを何度も浴びせられてきたようなのだ。

かなりデリカシーのない大人たちだが、さすがに一人も子どもを産んだことがない人に対しては言わない。
一人産んでいるがために、無神経に言葉を吐いてくるのだ。

子どもを何人持とうが、個人の自由だ。
産みたくないのかもしれないし、産めないのかもしれない。
そんなプライバシーに関わることを平気でずけずけと聞いてくる人が、当時は大勢いたことにぞっとする。

 
母は二人目を流産していた。
そのことについて詳しく聞いたことはないが、想像を絶するつらい経験だったに違いない。
そんな事情も知らないで、相手を傷つけることになるかもしれないと想像もしないで、よくある世間話として言葉をかけてきた人たちを、私はいまだに許せない。

今ほど、「人には様々な事情があり、安易に踏み込んで聞いてはいけないことがある」という認識が広まっていなかったので、仕方ない部分はあるにせよ、子どもの私ですら不快に感じる言葉をかけてきた人たちを、いい大人だとは到底思えなかった。   

 
放っておいてくれよ、と思う。
私たち家族の在り方が、あなた方に何の影響を与えるというのか。
関係ないだろう。本当はさほど興味がないくせに。口出しするなと言いたい。
 

なぜ大人が望む回答をしないといけなかったのか。
彼らは無意識だっただろうが、「一人っ子はさびしい」と答えてくれることを私に期待していたのは間違いない。
自分たちが考えるスタンダードから外れたものを下に見て、正そうとする。そして、自分たちはスタンダードであると安堵するのだろう。

今思えば、「全然さびしくないよ」と屈託なく答えればよかったような気もする。
予期せぬ答えに彼らが戸惑う姿を見てみたかった。
まあ、「そんなはずないでしょ。さびしいに決まっている」と即座に否定しにかかったかもしれないが。

 
相手を傷つける可能性がある世間話は、一刻も早く絶滅してほしい。

発言する前に、この発言で傷つく人がいるのではないかと考えることは、人と関わるうえで最低限のマナーだと思う。


 

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