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読書会に参加して学んだこと③ ~ 怒ると叱る、パワハラの違い、一道をひらく、祈る力   

 先日、読書会に参加してきました。
 今回は「修身教授録」(森信三)の「第16講 一道をひらく者(1)」を読み、感想などを交流しました。また、最近読んだ本の紹介などを行いました。
 今回の講で印象に残った文は次の通りでした。
 
➀真に考えるということは、その問題が常にその人の心の底にあって、忘れる時がないということでなければならぬでのです。それはまた他の方面から申せば、真の教育者は、少なくとも20年、30年の国家のことを、常にその眼中に思い浮かべていなくてはならぬとも言えましょう。
 
②維新以後現在まで、ほとんどあらゆる領域において、それぞれの歴史に残るような巨人をもっているのであります。すなわち、あるいは政治家に、あるいは軍人に、はたまた学者、芸術家に、明治以後幾多の巨人を輩出せしめていると言えましょう。
 
大志を抱かない限り、その前途は、結局は一個のサラリーマンとして、子供達のお相手係を務める程度を脱することはできないでしょう
 
 感想交流の中でも、いろいろと考えさせられました。
 
➀について
 「修身教授録」の著者は森信三先生で、今でいう教員養成学校の先生です。なので、教育について語られていることが多いです。
 
 今回の講でも「小学校教育というものは、国民教育の根本的な基盤であって、時代の民族の運命を左右するものだ」と誰もが言うけれど、本当にそのことを考えている人がどれほどいるか、というところから「真の教育者」について語られています。

 参加者の感想ではっとしたのは

「学校の先生や上司が叱れなくなっている(叱るのが怖いと言っている)」

という言葉です。
 簡単にいうと、叱る事、指導によって、相手が「傷ついた」「パワハラだ」と言えば、自分の方が悪者になったり、責められたりするのが怖いと言うことです。

 もちろん、叱り方、言い方、言葉の選び方、タイミング・・・いろいろと配慮しなくてはいけないこともあります。
 指導と言いつつ、ただ、相手を追い詰める言葉を投げかけていくのであれば、それはやはりパワハラと言われても仕方ありません。
 同じ言葉でも、また、相手との人間関係、信頼関係がどれだけできているかによって、相手の受け止め方も変わります。

 ある映画監督さんが「撮影のダメ出し」について言及していました。

「なんでも、いいよ、いいよでは、いい映画はなんてできない。私も俳優さんもスタッフもいい映画を作りたい、という向かっている目的が共有されているから、厳しいことを言ったり、ダメ出しがあったりしても、誰もパワハラなんて言わない。」

 また、

叱ると怒るも違います。

 怒るは、自分のイライラや思い通りにいかないという感情を相手にぶつけているだけで、心の底を見てみれば相手の成長を考えたものではありません。
 しかし、叱るは、相手の成長を考え、教え、諭すことにつながります。相手の事を憂う気持ちからし出発してこそ出てくるものです。

 だから「相手(人)」のことを「憂」うと書いて「優しい」と言えるのかもしれません。

(怒る人ではなく)叱ってくれる人は自分のことを考えてくれる優しい人なのかもしれません。

 学校の先生に限らず、教えたり、指導したり、コーチの立場にいる人は、相手の未来を考えた言動があってこそ「真の教育者」と言えるのかではないかと思いました。
 
②・③について
 たくさんの偉人がいますが、「最近は、大谷翔平選手をはじめ、スポーツ界から巨人が出てきていることが多いと感じる」という参加者の感想がおもしろかったです。
 
 もちろん、スポーツ以外でもノーベル賞を受賞した方や、中村哲先生(故人)などのように世界で尊敬される人もたくさんいます。
 どの方も「有名になりたい」「お金持ちになりたい」というのではなく、「~を救いたい」「大好きな野球で~をやっていきたい」などと、それぞれの道で「大志」をもっているところが共通していると思いました。

「一道をひらく者」とは、そういう自分が選んだ道を極めていく人の事かなあと考えさせられました。
 
  今回の講の中で「支那(満州)事変」について言及されているところがありました。
 参加されている人のお父さんがその戦地に行ったこと、そのころ自分が生まれ、父の手紙によって自分の名前が決まったことなどのエピソードを話されていました。
 
 考えてみれば、戦争体験について語られたり、話を聞いたりする機会はぐっと減りました。
 戦争自体を経験されている人が、減ってきたからです。
 戦争と言うと、自分には関係がない、遠い向こうの世界の話と感じやすかったのです。また、自分一人の力でどうなるものでもないと思っていました。
 
 各地で戦争が起こっていることに対して、「何かできることはないか」と問われたある僧侶の方は「祈るしかないです」と言っていました。

 祈るだけというと、私は「何もしない事」のように思っていました。

 しかし、制裁にしろ、支援にしろ、第三者が戦争にかかわることで、また新たな火種を作り、関係のない人までも犠牲になっていく事を考えると

祈ることで肉体的・物質的には関わらないけれど、精神的には心を寄せることが現実的ではないかと思い直しました。祈ることは、無責任のようだけれど、賢い方法なのかもしれません。

 読書会ではありますが、そういう、それぞれの方が経験してきたことについて話を聞けるのも、この会の楽しさであり、貴重な学びの場だなと感じました。
 
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
皆様の心にのこる一言・学びがあれば幸いです。

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