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お前らが欲しいのは、俺じゃなくてさ、チェンソーなんだろ?/『チェンソーマン』がエンジンスターターを引くとき

 皆さん、『チェンソーマン』のアニメが始まりました。

『チェンソーマン』というのは、週刊少年ジャンプで2020年の暮れまで連載していた少年マンガです。
 1話を数ページ読んだだけで「あれ!? ずいぶん他の漫画とジャンルが違うな」と分かるダーティな作風で話題になりました。

 私は藤本タツキ作品はジャンプ+(週刊少年ジャンプのWEB連載サイト)の『ファイアパンチ』からです。
 1話でいきなり主人公の腕がおいしいスープになり、こちらも当時かなり話題になりました。

『チェンソーマン』は非常にエンターテインメントで面白い作品ですが、普段血が大量に出るアニメを見ない人にはあまりオススメしません。
 もし、1話の戦闘シーンをふんだんに使ったスペシャルEDのMVを見て、「うわっ……」と思った人は、この話は忘れてください。

 だいたいこのぐらいの勢いです。

 大丈夫ですか?
 原作のファン、またはOPの開始10秒でオマージュに気が付いた人はたぶん大丈夫だったと思います(ちなみに自分は『貞子VS伽椰子』しかわかりませんでした。『コンスタンティン』と『ワンスアポンアタイムインハリウッド』は観たことあったはずなんですが……)。


 では、『チェンソーマン』の話、ではない話をしていきます。


藤本タツキは「私漫画」書きである

 小説には「私小説」というジャンルがあります。

私小説(わたくししょうせつ、ししょうせつ)は、日本の近代小説に見られた、作者が直接に経験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説をさす用語である。

私小説 - Wikipedia

 例えば――これはぜんぜん出典の思い出せない話なので、私が脳内で勝手に作り出したフィクションかもしれませんが(たぶん……なんらかの新人賞の講評かなんかだったと思うんですが全然思い出せない。知ってる人がいたらコメントで教えてください)、ある程度年齢を重ねて、初めて小説を書いた人の多くは、自分自身の物語を書くそうです。
 例えば、年老いて現役を引退した後の孤独とか、子供が嫁いで旦那が定年した後の微妙にぎくしゃくした夫婦の関係とか……。
 それはまさに「作者が直接に体験したことがらを素材にして、ほぼそのまま書かれた小説」、つまり「私小説」です。

 一方、作家の中にはもちろん、料理を作るように様々な要素を組み立て、味覚を刺激する位置に伏線やカタルシス、謎や萌えなどを配置していくような、職人技の作劇をしている方もいらっしゃいます。いわゆる作劇のコツみたいなものを他の人に教授できるのはこちらのタイプの皆さんでしょう。
 もちろん、職人タイプの作家であっても、作中に敷かれた世界観やテーマにはある程度必ず当人の体験や哲学が反映されているはずですが、ひとつひとつのシーンやシチュエーション、キャラクターやその配置などは、精密なプラモデルを本物そっくりに塗装するように、長年培った審美眼と緻密な計算の上で行われている、そういう場合が多いのではないでしょうか。

 こんなおおまか真っ二つにぶったぎれるほど創作の世界は単純ではありませんが、おおまかにそういう傾向はあると言っていいんじゃないかと思います。
 なぜなら、少なくとも私自身は、何年書いても『私小説』から逃れることができず、ずっと自分自身の心象風景を書き続けているからです。


『映画のような物語』ではなく『映画』を描くということは

『ファイアパンチ』でトガタが映画の話をし始めたとき、私はそれを思い出しました。

 この作品を読めば、藤本タツキが少なくともそれなり以上に映画が好きなのは明らかです(あるいは、わざわざ自分で映画を撮らないで漫画で映画を書いているからには、『映画』というマクガフィンになにか創作のテーマとして非常に意味深いものを与えているのかもしれません。知らん、単に映画を撮る金なんかないけど漫画はエンピツあれば描けるみたいな話かもしれん)。

 でも、映画好きの創作者……と考えるなら、藤本タツキはちょっと面白いことをしているように思いませんか。
 彼が描いているのは『映画の物語』ではなく『映画』です。銀幕の内側の物語――ひとつひとつの映画が描こうとしたなんらかの物語やイデオロギーではなく(ではなくと言ってしまうと間違いかもしれないが)、映画館、フィルム、DVD、映画監督、そういうメタ的な『映画』の物語です。彼は映画を観る人や、それに影響を受けた人、その作り手、映画を取り巻く衝動、映画に対する憧憬をよく作中に描きます。

 それって、「私小説」なんじゃないか?


映画を観ている自分自身を描くということではないか

 だから藤本タツキが『映画』そのものを描くのはもしかしたら……あー……この話するの飽きてきたので、そろそろ本題の話をします。

 私漫画としての『チェンソーマン』の話です。




 ここから先は思いっきりチェンソーマン第一部のネタバレがあるので気を付けてください。第二部のネタバレもあるけどまあみんな読んでるから大丈夫でしょう。




『チェンソーマン』は俺だよ、俺!!!


 いきなり『チェンソーマン』第一部の確信的な話をしますが、この物語でデンジという少年が他人に必要とされる瞬間は基本的にありません(彼が彼であることでそれなりに多くの人が助かってるんですが、まあ死んでもいるからトントンかも)。

 デンジを求めている人の殆どは、彼の中にいるチェンソーの悪魔、あるいは「悪魔を狩る悪魔、チェンソーマン」を求めています。そうでない人はだいたい死にます。というか、そうでない人(つまり、デンジ本人の可能性とか、人間性とか、そういうものを好きになって、彼にデンジらしくあることを望んでいる人)を生み出し、最悪の形でブッ殺すところまでが、「悪魔を狩る悪魔、チェンソーマン」への憧憬そのものだった、というところまでいきます。そのぐらい、デンジ本人は徹底的にないがしろにされます。クソ性格悪いFLCLと言われると確かにそうかも。マキマさんの終盤の代わりっぷりは海賊王を求めるハルハラハルコっぽいですね。同じピンク髪だし。

 生まれた瞬間から廃棄物みたいな暮らしをしてきたデンジは、実は父親の才能を受け継いでいたりとか欠片も出てこない母親が傑物だったりとかはしません。彼本人は最初から最後までゴミのままです。
 彼を特別な人間にしているのは、心臓に宿しているチェンソーの悪魔と、「悪魔を狩る悪魔、チェンソーマン」の肩書だけです。


何かになっても「俺」は見てもらえない

 人間は社会動物なので、常に何かの役割を負って世の中に存在しています。上司部下、家族親戚、既婚独身、裕福そうか貧相か、上品か下品か、立ち居振る舞いの印象や帯びている肩書も「そういう人」という社会と当人の関わり方として役割の一つであり、そういう意味では外見の美醜や性別などの持って生まれたものもその一部と言えるでしょう。

 いや……そういう話がしたいんじゃない。
 例えば、ペンネームで活動していて有名になる。何かで成功して、なんとかの人として知られるようになる。そのときスポットライトの下にいるのはそのナントカの人であり、「俺」ではない。

 それは負の要素でも正の要素でも同じだ。
 職の有無や質、貧しさ、醜い外見、そういうもので判断されるときもまた同じように、そのサーチライトで暴き出されているのは「俺」ではない。
 そこに「俺」はいない。ニートか貧乏人かキチガイのどれかがいるだけだ。

 単一の生命体としての「俺」には、何もない。
 肩書も、外見も、つながりを一切考慮しないとき、人間には何の要素も存在しない。個性なんてものはない。それは「役割」の複雑性が生み出す幻想に過ぎない。
「俺」はどんなときも、ただの一匹の霊長類に過ぎない。

 だから、「何か」になっても、「俺」は誰にも発見されることはない。
 目が覚めて、まだ思考が始まる前の一瞬の空白、あるいは寝る前、意識が落ちる瞬間の一瞬の空白にいる「俺」は、人間が人間である限り、永遠に孤独である。

 人間は悪魔ではないので、最初から「名前」を持って生まれることはないのだ。


だから、エンジンスターターを引く

 藤本タツキは令和を代表する漫画家の一人になった。おそらく、あばら家の木こり小屋から、漫画一本でここまで来た。やっぱり漫画家が一番儲かるな!

 創作の悪魔に取り付かれた、創作の魔人の多くは居酒屋に連れてくるには危険な連中が多い。理性を保っていられるのはごくわずかだ。その中でもきちんと「役割」を果たせる、立派な読者の犬はもっと少ない。ほとんどの連中は秘密裏に公安に処分され、地獄に戻る。

 藤本タツキはそういう環境で吠えている。
「天才漫画家、藤本タツキ」を求めるあらゆるに応え、同時に抵抗しているように見える。
 悪魔はただ全てをメチャクチャにしてやりたくて唸っているだけだ。それをどんな風に使うかはマジで本人の理性による。偶像になっていくチェンソーマンは、藤本タツキの「私漫画」なのかもしれない。

 まあ、こんなのは私の勝手な自己投影であり、妄想に過ぎないので、実際のところは本当にどうでもいい。
 チェンソーマンがエンジンスターターを引くとき、そこにはいわゆる「初期衝動」がある。「俺」の心臓部分と世界を繋ぐ、一番根幹の部分である。スターターはいつもだいたいそのへんにある。そして、一番獰猛な声で吠える。

 全部メチャクチャにしてやりてえよなぁ~~~~~!!!!!
 こんなクソッタレメディアなんかブッ壊してよォ~~~~!!!
 SDGsのケツの穴から手ぇ突っ込んで奥歯ガタガタ言わせてやろうぜェ~~~~!!!!!!

 誰も「俺」を見ていないなら、別にフルチンになって全力疾走したって別に構わないのである(いや、藤本タツキにはちゃんと理性があるので、きちんとチェンソーでは悪魔を殺すように気を付けていると思うけど)。

 その結果としてまあ……ある程度人間は死ぬが、きっちり俺の気に食わねえ悪人は滅び、それなりにオチがつくんだからいいんじゃないだろうか。『ファイアパンチ』は哲学の行きつく果てまで行ってしまったが。


つまり


 お前らが欲しいのは、「俺」じゃなくてさ、チェンソーなんだろ?
 くれてやるよォ~~~~~!!!! ギャハハハハハ!!! 手が真っ二つになっちまったなァ~~~!!! 良かったね。もう何も握ろうとしなくていいんだよ。一生懸命立ち上がったりしなくてもいい、足もブッ飛ばしておくから。……どうしたの? 全部の「責任」から解放してあげたのに、どうしてまだ苦しそうなの?


 しょうがない。
 死にたくないなら、おれと契約しろ。
 そして、お前の本当に欲しかったものを、その手に掴んでみせろ。



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