昭和のgifted - 82 積極的分離の成れの果て
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最近私は、自分でもギフテッドなのかもしれなくて、なんかよくわからないけれど人から評価されるものをちゃんと持っている自覚ができたので、積極的に「私、ギフテッドなんだよね〜」といたるところで吹聴している。
もちろんリスクがあるのは百も承知だし、それで何かしら後ろ指さされたところでギフテッドだろうがなかろうがちゃんと私のことを私として見てくれる人が日に日に増えて、そうした人たちの中から一緒に考えて、一緒に悩んで、一緒に喜んでくれる人に、目に見えて恵まれるようになった。
多様性社会のおかげか、これまでの抑圧人生が嘘だったかのように私が私らしくしてても構わないと言葉にしてくれる人が私に歩み寄ってくれるようになった。
私はnoteでうちの両親が不甲斐なくて…という記事をいくつも書いてきたけれども、そのお陰で今があるし、うちの親たち的には自分たちの思うそれぞれの愛情のかたちを示してきてくれていたんだと思ってはいる。
それ故に距離も置くし、私の立場からすれば被害者妄想を持たざるを得なかった旨もログとして残しはするけれど、両親のことを憎んではいない。ただ私の価値観や理想に追いついてきてくれなかった、もしくはそれぞれ頑張ってくれたのかもしれないけれど私的には足りないと感じてしまった。ただそれだけだ。
自分が辛い思いをしたから、嫌な気持ちにされたから相手が悪いんだ!と思うことは自己防衛的な本能として間違ってはいないと思うし、私にもそう思った時期はあったけれども、今となっては利他的に考えることのできるギフテッドはいつか必ず自信に触れた事象を全て内包することができると、私は思う。(認識できるまでに40年使ったけどもしかしたら比較的早いのかもしれないし、遅いのかもしれない)
点として存在していたもの(一次元)が線で繋がって(二次元)、あらゆる可能性を想像できるようになって(三次元)、その想像をかたちにするだけの技術や手腕を身につけることによって実現化できるようになる(四次元)、その後に実現化することの意味のなさに気づいてただただ全てを内包する観測者としてしか存在できないかもしれない可能性を自覚したとき積極的分離は現状定義されているゴールに近づくような気がした。もしもゴールに辿り着いたらまだ誰も見ぬその先が見えるのかもしれないし、すでにその先を見ている人がいるかもしれない、そんな終わらない旅が始まるのだろう。
私はギフテッドかもしれない。なにかしらの才能があるとわかる人にはわかるかもしれないけれど、大多数の人にはわかってもらえなくて、自分自身「なにかできるはず」ともがこうとしてみたところで現実的な実現性を見出せなくなって(理解してもらえないから)自分の無力さに虐まれるんだけれど、「無知の知」じゃないけど「自分は無力だし、これまでの経験上頑張ることは無意味だ」と自分に言い聞かせることで心のバランスをとるところまではある程度進めるんだと思う。本当にギフテッドなのだとしたら。
自分の無力さと向き合えた時、積極的分離は次のフェーズを用意してくれている。
とは言え私もただのヒトだから意にそぐわないことやハラスメント的理不尽を受けたら病むし、病みきった結果殴り返すこともある。
ギフテッドだとしてもそれぞれ個性もあるし、育まれた環境にも左右されるし、得手不得手はあるし、本当の意味で多様性を受け入れるのであれば“ギフテッドかもしれない才能を持つ人”が、思考を巡らし続けた結果、“才能を発揮したくないorできない”と決めたことに「勿体無い」「やってみないとわからないよ!」なんて言葉を投げかけること自体私は「無責任な言葉の暴力」に感じる。
それでも、そう言う言葉を投げかけてくれる人がいて、そこには純粋にその人がそう思っただけのことを共有してくれたと思えるのであれば今まで見たことのない景色が広がる可能性は、ある。
キザな表現になるかもしれないけれど、季節柄、桜の花が芽吹いて、咲き誇って散って、それでも繰り返し芽吹く様はさながら「積極的分離のそれ」の様に感じてしまった。
“自分という樹”がなにかしらの天変地異で花を咲かすことができなかったとしても、なにかしらの手法でいつか夢見た光景を現実化させようと奮闘してくれる人が現れる可能性に賭けて、今私にできること、少しでも良いから一輪の華を咲かせてみせることから始めなきゃいけないと最近は思うようになった。
咲き切った花はあたり一面に散り、花筏になって海に溶けていく。
水面に広がった花びらが、それ自体はとても薄く、小さなものなのに緩やかに広がっていく光景はとても抒情的で、少しずつ気にかけてくれる人が増えている私の心情を表してくれているようだった。
なんてな。
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