松田貴郎の自分史 連載④「A NEW STYLE WAR」

2005年6月、統廃合で大竹病院へと移転しました。病状に合わせて福祉車両、近隣地域から派遣された救急車でのピストン輸送でした。新病棟は真新しく、そこでの新しい暮らしに少しわくわくしました。
病院の名前も「広島西医療センター」に変わりました。

その頃、じいちゃんが亡くなりました。肺気腫でした。
「入院することになった」と自分で荷物をまとめ、自分で車を運転して隣町の病院に入院しました。最後の頃には低酸素や鎮静剤なのか、混濁した意識の中で盛んに手を動かし「何しよるん?」と訊くと「仕事しよる」と答えたそうです。
戦時中は水夫として海上輸送に従事、身の危険を感じて船を下り、戦後は配管工をしていたじいちゃんは家族を煩わせることなくひっそりと逝きました。
じいちゃんの「物事を工夫して乗り越える」血筋は間違いなく僕にも受け継がれています。

同室だった久本さんというおじいさんとは仲良くさせてもらいました。夕食のおかずがいまいちな時はボンカレーを分け合ったり、奥さんが焼いて持ってこられた高森牛のステーキを一切れいただいたり、たらの芽の天ぷらを一ついただいたりして、よい時間を過ごさせてもらいました。
体調を崩されて部屋が変わり、気管切開後に認知症を発症されてから亡くなるまで会いに行くこともなくなりましたが、けんかっ早いちょっとHなおじいさんでした。

当時、浜田省吾のファンクラブに入ってて、ダメ元でコンサートチケットの抽選に応募しました。幸運にも二枚当選し、日程も気候のよい10月で「これは行くしかない」と人工呼吸器を持っての外泊を合わせて行いました。
チケット二枚で僕と母、親父は当日の立ち見券を買って入りました。車椅子席はわりと前にありステージがよく見えましたが、スピーカーが近くて大音量で体に響き、慣れるまで「これ、心臓に悪いなぁ」と戸惑いました。
慣れてからは存分に楽しめましたが、終わった後のごった返しを予測して、親父がアンコールに入る前に「帰ろう」と言いだし、今思えば「最後まで観たかったなぁ」と思いますが帰ることにしました。
家には2泊くらいして、久しぶりの故郷を楽しみました。
夜中に猫ちゃんが呼吸器の管をバシバシしたり、帰る日の明け方にいきなり停電したのは焦りましたが、(原因はうちにつながる電線のジョイントの緩み)問題なく帰院できました。

その頃から病院への投書をするようになりました。

ある時、ふと血の気が引いて冷や汗が出て「心臓が止まるのでは?」と恐怖に駆られました。パニック障害の再発でした。臨床心理士がカウンセリングに来るようになりました。
自分がパニックにならないように「これをやってるから大丈夫」と行動をルーティン化して乗り越えたつもりが、今度は「それをしないとパニックになる」という悪循環になりました。それは今も続いてます。

微熱や息苦しさなどの体調不良を繰り返し始めたのもその頃からでした。おそらく軽い誤嚥性肺炎だったんだと思います。
その影響で常に人工呼吸器を着けるようになりました。

右派の政治思想に傾倒してネトウヨ化したのもその頃からでした。「左翼の支配からこの国を開放したい」と本気で考えていました。
今でも僕は右派ですし核武装論者ですが、最近は思想的には真逆ですが「日本国債は借金じゃない」と本当のことを言ってくれている山本太郎さんにささやかな期待を寄せるようになりました。

東日本大震災での被害は衝撃でした。
あんなすさまじい津波が来るなんて思いませんでした。僕の地域移行の物件探しもあれを想定して探しています。

国立病院機構・中四国支部への投書を始めたのはその頃でした。昔、一あゆみ病棟の患者達が病院と戦いを繰り広げていた頃に彼らが使っていた手段の一つでした。彼らと仲のよかった職員が教えてくれました。
ただ、その手段は効果と同様に風当たりも強く、匿名性の薄さから今は封印しています。

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