人生にテーマがない

6/7 曇り
 人生にテーマがない。それが最近の悩みだ。
 今後のキャリアをぼちぼち考え始めているのだが、自分が何を欲しているかということが、この頃ますますブレてしまい、生活する上での指針を見出せずにいる。自身の方向性を定めるためにはテーマが必要だ、というのが私の直感だ。

 もう一つ、テーマという語が気になっている理由がある。最近「テーマからつくる物語創作再入門」という本を読んでいるのだが、これの冒頭に面白いことが書いてあった。

昔むかし、キャラクターはプロットに恋をしました。二人は最初から波瀾万丈。燃える二人は壮絶な危機にも襲われ、互いに「もう、無理」と心が折れた日もありました。(中略)遠くから、黙って二人の縁を結びつけようとしていたのはテーマでした。人々の話題がプロット対キャラクターでもちきりだった時も、両者を繋げていたのはテーマだったのです。二人が憎しみあっている時でさえ、テーマは仲を修復すべく、舞台裏で苦心して働きました。二人が共にいることに意味を与えたのです。二人がチームになるように。

K.M.ワイランド「テーマからつくる物語創作再入門」(フィルムアート社)

 これはなかなか示唆に富んだ比喩だと思う。
 人生を物語として捉えるならば、私というキャラクターがいて、日常や出来事というプロットがある。私たちは理性や行動力をもって、自らのプロットを切り開いているはずなのだが、それがやりたいこととは違っていたり、大義というのだろうか、自分自身の欲望とは別のところに、人生の物語が乗っ取られたりする。こういう場面では、たいてい個人としての指針、つまりはテーマが欠けているように思えるのだ。

 心理学を勉強していた人間として、こういう考えをすると真っ先に思い浮かぶのがナラティブセラピーの存在である。
 ナラティブセラピーというのは、とある問題が支配しているクライエントのエピソードをカウンセラーが解きほぐし、例外的なエピソードを発見することによって、クライエントの物語、つまりはナラティブをポジティブな認識へと刷新していこう、という認知行動療法の一つである(だった、気がする)。
 愚直な例を出せば、「お母さんにいつも叱られる」が認識としてあるなら、「悲しいときは慰めてくれる」「良いことをした時は褒めてくれる」といった例外的なエピソードを掘り出し、「お母さんは悪いことをした時は叱るけど、そうでない場合も多いし良いこともある」という認識に変えていこう、という方法だ。

 ここまで書いて、この日記の前半とナラティブセラピーになんの関連性もないことに気づいた。うわぁ、なんか良いこと言おうとしてたのに。
 これを書いている途中で音MADを視聴したりしたから、何を言いたかったのか忘れてしまったのか。もしくはクソバカ連想ゲームをおこなっていただけなのか。
 まあいいや、最近気になっているコンテンツについて語っておこう

・「にじかって誰?」音MAD

 ぼっち・ざ・ろっくのキャラクターである伊地知虹夏への愛情を綴ったYoutubeのコメントが元ネタとなっている音MADジャンル。海外の人特有の味のある言い回しがクセになる。

・マスタード姉貴

 声マネ投稿者。声マネと下ネタのクオリティが高くて気になっていたが、雑談配信を聞いてみるとムチャクチャ面白かったのでハマっている。

・大浦るかこ

 バーチャルYouTuber。トップクラスに好きなVtuberだったのに活動無期限休止してしまった。マジで悲しい。近日中にアーカイブが消えてしまうのでラジオ配信などを見直している。

・推しの子

 このアニメを観たせいで脳が焼かれてしまった。面白すぎる。続きが気になって仕方ないが、漫画は読まないようにしている。この1クールが終わったら単行本を買って読む。1週間が来るのが楽しみという、子供心を思い出させてくれる素晴らしいアニメ。

・おおえのたかゆき

 これまでもずっと楽しく配信を試聴させていただいていたが、坊主になってからもっと面白くなった。今年マジで伸びると思う。

 他にもハマっているコンテンツは色々あるが、今日はここまで。「こんなこと書いている暇があったら勉強したり仕事したり、博士中退就活noteの続きを書くなどした方がいいのでは?」と思うのだが、やっぱり駄文を綴る時間が私には必要だ。
 博士中退就活noteはぼちぼち書いている。大学院を辞めることにして、それを先生に相談したのが、安倍元総理が凶弾に斃れた直後のことだったので、この日付は一生忘れることはない。7月8日。この日までには投稿できるようにしたい。

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