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真に役立つカウンセリングを受けるにはどうしたらよいか?

■カウンセラーとの出会いを自分で作る
人は誰しも、人生において、「誰かにこのことを相談したい」と感じることが一度はあると思います。しかし、その時に、ちょうどよく、人生を相談できる相手を持っている、というのは、現代社会が孤立社会になってしまい、大変難しいです。

私は山登りをするのですが、夏山のテント泊をしていると、「妻と離婚の危機を迎えている」などという、シリアスな相談事の声が聞こえてきて、内心、”やべっ!こんな話を赤の他人が聞いてしまってもいいのだろうか?”と思ったりもしますが、朝起きると、おじさん4人組だったりして、現代の山岳会というのは、”人生相談所”の機能も果たしているのだなぁ…と、感慨深く思ったりもします。とはいえ、駄々洩れ。一合一会なので問題がないと言えば、そうですが。

さて、そのような人生相談の相手ですが、見つけるのが難しい。

現代は、”心理職”と言われるような職業も確立しており、命の電話もあり、多くの人が、サービスを享受できるようになったのは、良きことですが、あまり役に立たないサービスに無駄にお金を使ってしまうということも、頻発しますね。

特に、情報商材化されてしまっているものは、生身の人間に聞いてもらう、という肝心のセラピー部分がない。動画一本いくら、などの、”勝手に聞いて治ってください”という放置プレイでは、”心の癒し”ではなく、”知識伝授”、ということになってしまいます。

マーケティング手法が適用されて、実際には得られない知識を喧伝していても、お金を払ってしまえば、それまで。やり逃げ可能です。

さりとて、カウンセラーのグループで、”電話相談一回○○円で話を聞きます”、というサービスや、”メール相談一回〇〇円”というサービスも利用してみましたが、相手の事情を理解する、親身になる、という点で、最初から挫折です。なにしろ、そもそも、知らない人の人生相談なんて受けれない訳です。ちょっと考えたら分かるでしょう。立場を変えれば、知らない人の人生に、あれこれアドバイスできますか?できないですよね?

傾聴というカウンセリング基本技能がありますが、聞いてくれるだけのレベルならば、親切な人に話を聞いてもらってスッキリする!というのは、現代では、飲み屋で行われているようです(笑)。

私も良く一人で立ち飲み屋などで飲んでいると、おじさん連中から、愚痴を一杯聞かされています。心が広いので、めんどくさいけど、聞いてあげています。傾聴を頼めば、ビールも飲めないのに一時間5000円。飲み屋に行けば、ほろ酔いセット1000円で話を聞いてもらえるとなれば、誰だって飲み屋を選ぶでしょう。飲めない人以外。見知らぬ他人で満たせるような心理ニーズ…愚痴程度…であれば、なおさら。

では、自助グループはどうでしょうか?私は年季が入ったアダルトチルドレンなので、ACの自助グループにも行ってみましたが、全然ダメですね。

何がダメかというと、心理技術がゼロなので、ただ過去を蒸し返して終わりになり、未消化の感情を消化するよりも、より深く傷を砂に描いた文字から、石に刻んだ文字にしてしまいます。

私が見るところ、主催者の能力しだいなので、主催者が心理技術(カウンセリング手法)を学習した人ならば良いのではないかと思いますが、それなら、有償で治療という名のカウンセリングを行うべきですよね。となり、NPO等の非営利団体になっているものは、プロではないというのが当然の流れ。

心療内科では、精神薬中心なので、逆効果の場合が多いですし。そもそも、ACなど取り扱っていないかもしれません。鬱になってからでは遅いということも言えます。大事なのは、発病以前の予防。

では、宗教はどうか?と言いますと? 現代日本の宗教団体は、基本的に集金のための団体になっているのです。そもそも檀家の方で僧侶と個人的に家族ぐるみの付き合いが出来ている家って、何軒あるのでしょう?神道で、自分の属す神社を持っている人がどれだけいるのでしょう?というか、神官が誰か?個人名すら分からないのでは?では、キリスト教の牧師様や説教者はどうかと言いますと?これも基本的に人生の伴走者とは機能しておらず。コミュニティ形成が出来ている宗教団体もあるにはあるのですが、なかなか見つけるのが難しそうです。

日常的に接する関係性で、先生と生徒という関係性だと、相談事もしやすいものですが、学生時代を終わると、なかなかそのような関係性は持ちづらくなります。余談ですが、ヨガの先生をしていた頃は、非常に相談事の持ち込みが多く、そっちが本業になりそうな勢いでした。

親友に相談するというのが、学生時代は定番路線ですが、社会人経験も長くなると?幼馴染との接点も失われがち。特に地元を出た人はそうですし、あまりにライフスタイルが変わってしまって、親友も現代のあなたの生活に適切なアドバイスができないかもしれません。

かといって会社の友達に…というのは、運が良ければレベルの話。組織的な立場を超えて、本音を語りあえる仲というのは、得難い。社外の人など、できれば利害関係がないほうがいいですよね。

親兄弟という相談相手もいますが、実は親兄弟が相談ごとだったりもしますよね。また、客観性を担保できないということもありますしね。

私が個人的にお勧めする方法は、日記をつけて自分で自分の感情を解消していく活動ですが、客観性というのは個人の能力によります。能力が高くても、自分というのは見えにくいものなので、延々と堂々巡りを繰り返す可能性もあります。何年も前の日記を読み返すと、前から同じことで悩んでいるよなぁ、成長していないなぁと思ったりもします。

認知行動療法やアクセプタンス&コミットメントセラピー(ACT)ではワークが用意されていますし、最近では、スマホアプリも出ていたりして、一定の効果がありますが、じわりと効く、ということで、ブレークスルー的ではないです。

まぁ、小さな気づきの積み重ねがブレークスルーなので、個人でワークに取り組むことは、自分で出来る最善の策だと思いますが。

以上、見てきたように、人の手を借りても借りなくても、けっこう

セラピー効果を得る

ことは、精神的に自立している人にとっても、難題なのです。

■ うまくいく方法 … カウンセラー職を招く

この方法に気が付いたのは、チベット僧のターパさんの来訪以後です。現代でも、日本以外の世界の仏教では、僧侶が在家と食事をするという習慣が残っています。
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仏教的功徳として大いに推奨されたのが、出家修行者に食を供養することである。原始経典を読んでいると、在家信者が釈迦や弟子たちを食事に招き食を供養している場面に多く出会う。これは、一つには釈迦の教えを受けることを望んでのことであるが、さらに、修行者に食事を供養することによって供養した本人も功徳を積むということがあったのである
ーーーーーーーーーーーーーーーーー 引用元以下『仏教における食』

これは、仏教が源とする、ヒンズー教の教えでも同じで、イスコン協会では、定期的に僧侶と食事を共にする時間が設けられています。

悲しきかな、日本だけで、このような仏教の良き習慣が廃れてしまったのですね。

■ チベット僧のターパさんのこと

私は人を自宅に招いて食事を振舞うのが海外生活の経験から好きなので、良く海外のゲストにお泊りいただいていますが、初めての海外ゲストがチベット僧のターパさんでした。

彼は、ダライ・ラマより法名を貰い、出家した西洋人の僧侶の方でしたが、世界の仏教国を巡礼して回っているということでした。海外では、布施行をしたい!と望む在家が引っ張りだこで僧侶を招き入れ、家に泊ってもらい、食事を分かち合うのに、日本ではその伝統が廃れている!といち早く気が付いた私が、名乗りを上げたのでした。

私はヨガのインストラクターをしていたので、バガガッド・ギーターを学ぶ必要があり、イスコン教会に行くことがたまにありました。インドから高名な僧が来日するときには声がかかります。その際は、大きな家族のような信者のコミュニティにも慣れており、信者の家に泊めてもらうということが自分にもありました。

このような高僧の方々は、すべてを布施行で賄われているので、食事だけでなく、泊まる場所や交通費なども布施です。昔は歩いて行ったので、特にお金がかからないということだったのだと思います。

こちらがターパさん。

ターパさんと何日か過ごす中で、自然と家族の話になり、自分の抱えていた重荷が取れるようなお話を自然と僧侶の方というのはしてくださるのです。

じっと、どこかで話をしているのではなく、観光しながら、お茶しながら、日本文化をご案内しながら、自然と、そのようなお話になったということでした。

その後、サンマテオにお住いのマイケル牧師もお泊めすることにしました。やはり、マイケル牧師とも、同じように人生について語り合うことになりました。こちらはキリスト教の方ですので、布施をもらうということは何も考えておられませんでしたが、私の自宅での食事と宿泊は当然ですが、布施させていただきました。

マイケル牧師はワインを提供してくださりましたが、アメリカで、友人たちで集まって持ち寄りパーティをすることが多いですが、その時の習慣で、私も良くワインや飲み物を持ちこむので、違和感はありませんでした。観光案内で、見たいとおっしゃる場所を色々とお連れしました。

これらのことが起こった時、私は別に人生に悩んでいたことは全くなく、むしろ米国での生活で見た富裕層のように、旅人を招き入れることができる経済的ゆとりがあることに感謝して、興味深い旅の話が聞けて嬉しい、という感じでした。

ので、他にも、オーストラリア人、スイス人、韓国人、などの男女、トータルでどれくらいでしょうかね…?7~8名程度ですかね?お泊り頂いています。人を泊めてあげることができる人は、自分も相手を信頼し、泊めてもらう、つまり、富を受け取ることもできるようになるような気がします。そのギブアンドテイクの連鎖は、恩送り形式で良いと思うのです。(相手と回し合う=貸し借りゼロにしようとすると、お歳暮送り合いの贈り物合戦みたいになってしまいます)

さて、この時は全く気が付いていなかった僧侶への乞食行での布施のメリット…気が付いたのは、今回が特に、です。

仏教カウンセリングの岡本一志先生を糸島にお呼びしたのです。実は、今回も、自分の悩みをカウンセリングしていただくということよりも、自然農の方たちに、仏縁を再度取り戻してほしいという思いが起点でした。おかもん先生の仏教説話はとても分かりやすく、正直、自然農で出会う年配の方は、道徳的な観点がどこかしら間違っている、と感じることが多くありましたので。

例えば、「娘が母親の私の家には寄り付きもしない」という愚痴を聞くことがありました。しかし、よくよく話を伺ってみると「あなたは嫁いだ身なのだから、夫の両親に孝行しなさい、尽くしなさいと母親として教えている」と胸を張るのです。それでは、娘さんとしては、親の言いつけを守っている、ということになりますよね?

私は自分の両親と縁が薄かったこともあり、年配の人には、かなり親切な方ですが、お話を聞いていると、このように疑問に思うことが多くあり、ここ2年ほど聞いている仏教の基本的な教えと対立する教えを無理にも守っている人が多いように思います。

例えば、最近も、老親を亡くした女性が「親孝行のために家を守らねば」ということで、法事や神事にてんてこ舞いされていらっしゃるのですが、仏陀が法事の儀式的な執り行いを細かく指示したという事実はないようでし、豪華な法事のお食事などが死者の供養になるということはないです。墓もそうです。

縁起などは明白に否定されているのが仏陀でした。儀式的な決まりというのは、そうすることで心が落ち着く人がいるから、ということなのではないでしょうかね。

むしろ、為政者のための宗教とされた儒教の教えを、信心深い考え方なのだと誤解し、守っていることで、仏教でいうところの 慢 に陥ってしまっており、逆効果になっていることのほうが多いように思われました。

仏教は、仏様を敬いますが、それ以上に、教義としては、法灯明を是とします。

これは、例えば、4時間もぶっつづけで給水もせず、ランチも食べず、野外の日射の元で講釈を聞けば、誰でもバテますよ、ということが法です。一般に運動生理学で、一時間あたり5ml×体重の水分をアウトドア活動では補給するように言われており、それは、体重50kgだったら、一時間当たり250mlの水分を飲まねばならないとということですが、このことが、”法”です。ものごとのことわり、という意味です。人間だったら誰だって脱水状態を避けるために水分を補給しなくてはなりません。ところが、指導者を妄信してしまうと、”水分補給が必要”という動物としての自然なニーズですら、”我慢すべし”と、我慢が美徳になってしまうのです…。

このような倒錯があちこちで見られるのが日本社会なのです。仏教の

 法灯明

に照らし合わせた場合、敬虔である、とは、とても言えない、間違った信念をそうとは気が付かずに、持ってしまっているということがとても多いような気がします。むしろ、昭和の価値観は仏教には合っていないかもしれません。

仏様の教えにもなく、神道の教えにもなく、何が起源か分からないような、誤解に基づく、信念ということですね。

さて、このような事情で、糸島におかもん先生をお招きし、来ていただいたわけですが、私にとっては、個人的な悩みごとで起きていた、一種の

”おもいこみの解除”

へ、一気に解消へ動き始める、起動力、スターターみたいな経験になりました。特に、このことは意識していなかったのにも関わらず、です。

それは第一には、この2年間というもの、毎朝仏教の説話ライブを聞き続け、先生が各参加者の質問に答える答え方を知って、先生の知性への信頼が大きく育っていたからということがあります。

悩み事って誰にでも聞いてもらっていいってことはないですよね?逆に聞いてもらって間違ったアドバイスをもらってしまったがために、問題がこじれた、ということが良くあります。

例えば、アダルトチルドレンの癒しでは、親に貰った心無い言葉に傷ついた子供の自分を癒すために、親にその事実をぶつけると良い、と言われますが、古い常識です。現代はむしろ、昔のことをぶり返して親にぶつけても、傷ついて終わるだけで傷を深くするだけであると言われています。

私も祖母に幼児のころの思いをぶつけたことがありました。「おばあちゃんが死んだらどうする?」としつこく聞かれて、言葉にできないながらも、”大人なんだから、自分の生きる意味くらい自分で見つけてよ、幼児の私に聞かないでよ”と3歳児ながらに、うざかった経験があります。それを祖母にぶつけたところ、逆ギレされ、激しく抗議されました。その祖母は、孫の私が結婚式で使っているバッグを花嫁から無心するような人でした…。最後まで祖母はクレクレ聖人でした…。

私の家系は全体にそのような人たちなので、私はバランスをとるために、どちらかというとニヒルに育ったのですが、そんな現実主義者の私の目にも、仏教の法灯明は、論理的隙がないです。

しかし、人間というものは、自分自身の事柄においては、完全な客観視、というのは非常に難しいものです。人間界では、それぞれが自分の主観の世界を生きている、と言っても過言ではないかもしれません。そして、その主観の世界へ、助言者が一歩踏み入れてもらわない限り、その人が向き合っている困難、の正確な姿というのは、見えてこないものなのです。

例えば、昔、会社経営者の2世に、「俺には職業選択の自由がない」と嘆かれたことがありました。このように、銀のスプーンをくわえて生まれてきたと他人には思える境遇でも、その人なりの苦悩を抱えているものです。相手の目線に立ってみなければ、その人の苦悩は救えないのです。これが対機説法というものです。仏教の基本になっています。

今回、おかもん先生にしていただいたのは、私個人への対機説法でした。

一対多で語られることが多い説法は、たしかにどんな説法でも、誰しもが聞くべきところ、直すべき心の癖というのはあるものです。

ただヨガのインストラクターをしていた経験から言わせていただくと、注意点を聞く人はいつも同じ人で、すでに出来ている人ばかりで、肝心の聞いてほしい人は、涼しい顔、ということが多いものです。それくらい、人は自分に語られている言葉が、人ごとになって入ってこない、ということです。

この問題点を、1対1で対機説法をしていただければ回避することができます。必ず、自分に向けて選ばれた説法である、ということなのですから。

このように、先生を招く立場の人が、最も大きな恩恵を得ることができるのが、僧侶を招く担当者、というわけです。カウンセラーさんを日雇いしたら一体いくらのカウンセリング料がかかるのでしょう? 私はプロの登山ガイドなのですが、小さい山に登ろうが槍に登ろうが、日当は最低賃金が決まっており3万円です。先生は布施で良いとおっしゃるため、会場費、設営にまつわる手間、ご案内の足程度しか、費用は掛からなかったです。(それすら、イベントでの募金でほぼ賄えてしまいます)

救済を求める、すべての人に機会を与えることが可能な仕組みであるという意味では、本当に素晴らしい仕組みではないでしょうか?

日本では廃れてしまった、こつじき行が、派生形のような、このような個人カウンセリングの場として、復活の道へ進むと良いなと思っています。

そして、願わくば、在家の人たち同士が大きな家族のようになって、説話の集まりがある都市が遠方のことがあれば、泊まり合うことができるようになれば、助け合いの環も広がるのではないかと思います。

実際、イスコン協会ではいまだにそのような伝統で運営されていますしね。

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