「分かる」と「信じる」の違い。

こんばんは。木下雄斗です。

私は一度「無知の科学」という本を読んだことがあります。この本の大きなテーマは下記の引用がわかりやすいかと思います。

「なぜ人間は、ほれぼれするような知性と、がっかりするような無知をあわせ持っているのか。たいていの人間は限られた理解しか持ち合わせていないのに、これほど多くを成し遂げてこられたのはなぜなのか」

本書では、例えば完全に知らないと思っているものだけではなく、非常に身近な水洗トイレの構造や一般社会のことなど、知っていると思っていることも知らないことが多いということを示している。しかし、それがダメなわけではなく、端的に言えば、必要ないと認識した情報はカットして、必要に応じて役立つ情報を抽出するように進化したと言われています。また、わからないことがあるからこそ、知識のコミュニティに属し、周りの人と協力して、その人達の知見も借りることができるのです。

しかし、この上記のような話も認識していなければ知っているつもりになりやすいのも事実です。なのでこれは知のコミュニティから得ている知見だと認識することが大切になると思います。

そこで重要なのが、「分かる」と「信じる」の区別をつけることなのです。それは知識だけではなく、人間関係においてもそうなのです。

例えば、飲食店を探していて、食べログの評価が高いというのを見て、「あのお店は人気でいいとこなんだよ!」とか、進学も「あの大学は偏差値が高いからいい大学だ!」とか、「大企業なら安心だ」とか、それは本当に「分かっている」ことではなく、「信じていること」がかなり多いのです。今回のコロナ騒動の中で起きている、トイレットペーパーがなくなるから爆買いするというのも、信じてしまったことなのではないでしょうか。

それを認識することなく、ある種、知のコミュニティから得た知見をそのまま鵜呑みにすること、よくあると思います。友達から聞く他の人の悪口なども全て信じていることになるのではないでしょうか。たしかに、すべての情報の裏を取ることはできないでしょう。しかし、これは、

私が信じたんだという認識を持つこと

これが非常に重要だと思います。そうすれば間違っていても、自ら信じることを選択している認識があれば、人のせいにするだけではなく、自分になにができるのかを考えるきっかけになるのではないでしょうか。

ではまた!



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