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御伽噺「全部嘘でも」

「嘘」とは何でしょうか?

この世界においては、「何かがあると言いたいとき、その反対の何かがなくてはならない」、という法則が存在しています。
よく言われるのは「正義」と「悪」とか、
「愛」と「憎しみ」とか。
もっと世俗的な方がわかりやすいでしょうか。
あなたが何かを食べて「おいしい」と感じるのはそれと比較対象になる「おいしくないもの」が必要、ということです。

ですから、「嘘」というものがあるとするなら、「真実」というものがあるはずなのです。
「嘘がない世界」は「真実もない世界」と同じなのです。
世の中には嘘があふれていて、もはや世界そのものが嘘のようにも思えてきますが、世界が嘘そのものなのだとしたら真実そのものの世界もあるはず、ということなのです。
真実そのものの世界とはどんなところでしょうか。

▽御伽噺「全部嘘でも」


そこは、光の世界です。

どこまでも、どこまでいっても、私とあなたの境目がないすべてが一つの世界。
すべてが溶けていく、自我や超自我のない、無意識のみの世界。
脳が外界の刺激を制限することを止めた世界。
どこまでも穏やかで、肉体という軛から解き放たれた魂だけの、夢の世界。
一つになっていく
一つに溶けていく

溶けていく
溶けていく
溶けていく

けれど、それは「違う」と思ったモノがいました。
違うから迷う。
違うから怖い。
違うから戸惑う。
違うから同じになりたい。
そのモノはそれが一番「違う」と思ったのでした。


仕事で間違えた。上司に叱られる。
けど、違うんだ。
私には私なりの考えがあったんだ。
確かに間違えたけど、そもそもきちんと教えてくれてないじゃん。
でも…。たしかにだけど…。だけど…。
そうしていると、上司が缶コーヒーを渡してきた。
(それでいい奴ぶりたいだけだろ)
「俺にもお前みたいな時期があったんだ」
(うるさい。何がわかる。全然違うわ。)
けれど、傷ついた心には確かに不器用な優しさが広がる。
手には缶コーヒーの冷たさが広がる。
私の瞳に彼が映る。
彼の瞳に私が映る。


俺が幼少のころは酷く怖い父親だった。
見上げる父からの怒号が真下の俺に降り注ぐ。
恐ろしくて視線を下げる。
悔しい。悔しい。悔しい。
俺が大人になったら絶対にこんな奴にはならない。
この痛みを自分の子に絶対に感じさせない。
俺はこんな人間にはならない。
それから何年も経った。父は年老いた。
背は曲がり、俺が見下ろす。
父は物忘れがひどくなって、排せつを失敗するようになった。
おれはカッとなって怒号をあげた。
父は恐ろしくて視線を下げる。
俺は自分自身を悔しく思った。
こんなふうになっちまった。
悔しい。悔しい。悔しい。
俺の瞳に父が映る。
父の瞳に俺が映る。


歩幅が違う
歩く速さを合わせる。
背丈が違う。
君が僕を見上げる。
僕が君を見下ろす。
エスカレーターで君が先を行き、視界が逆転する。
彼女はそれが好きで、僕はそんな君が好きなんだ。
十数秒後視界は元通り。
少し冷めた君の髪に触れる。
髪をなでる。
少し視線をそらして口元を緩める君。
手が触れる。
手をつなぐ。
それから、
それから…。
君の瞳に僕が映る。
僕の瞳に君が映る。


二人で一つじゃなくて
一つに二人が在りたいと思う。
きっとそのモノもそうだったのだろう。
たとえ傷つくことがあったとしても。

合理的に客観的にみるのであれば
優しさなんて
悔しさなんて
愛だなんて
どこにもない
私とあなたの間に流れる勘違いにすぎない。
世界はホログラムにすぎない。
全部嘘にすぎない。

でもきっとそれでよくて、
どこまでいっても嘘でしかない意識と肉体を許せるのなら
嘘でもいいと許し合えるのなら
それが救いでしょう?
だから、きっと救世主は「詫び」と「寂び」を知っているものなのだと思うのです。

あなたはみんなと同じになりたいですか?
それとも一つにみんなと在りたいですか?
私は個であること、孤独であることは少なくとも悪いことじゃないと思うな。

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この御伽噺は以下の記事と対になっています。

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