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こどもは誰のための存在なんだろうか?

こどもってなんだろな。
何のための誰のための存在なんだろうか?


宗教が政治に関与しているっていう闇が流行ってんなと思ったら、今度は「精子提供」なんて言葉がチラついた。

何だそれ?
と思ったんだが、いや、全くその言葉の通りで“精子を提供する事”である。

正直僕は気落ち悪いなと思ったな。悪いけどさ。
僕個人の意見だから許せだし、そもそも気持ち悪いと思うなら見なくていいじゃんってか。ごもっともでござる。しかしそんな意見もとりあえずは置いておこう。



どういう人がそれを受けたいのかというと、まぁ想像すりゃわかるようにこどもができない人のためや、同性同士で結婚したような人に提供するんだという。さすがに結婚していない人には提供していないんだとか。
簡単に言えば「育てる能力」を持っているご夫婦に提供するという事なんだろうか。

これは個人での事なので安易に行う事が可能なんだという。個人的にやる分には。
法的な決まった機関からの精子の提供は、様々な検査などを介してからの提供に至るので、時間とおそらくお金もかかる。
確実に健康な精子が手に入るという保証みたいなものを“買う”と思えば確かに値段は爆発的に上がりそうだ。

個人的には、そこまでして自分のこどもが欲しいという「欲」が気持ち悪いなと感じる。
こどもは欲しいし育てたいという気持ちはわからんまでもないが(わからんけど)、できないならできない作れないなら作れないでいいんじゃないかって思うのな。
「自分の遺伝子を残したい」という気持ちも僕には到底理解に苦しむ事案である。

避妊治療してもこどもができないからって、他人の精子をもらって妊娠するのははたして自分のこどもと見られるのかという謎だ。
そこまでやるなら、「養子」でいいんじゃないかと思うわけよ。

つまりはこどもは賜物で特権であるって事よ。
故意で人意的で意図してできたこどもって(ありがちだけど)そして、「わたしとあなた」という関係性以外からできたこどもという関係性に生命の神秘とか尊さみたいなものを感じる事が僕にはできない。

それならもっと親という存在になれる特権みたいなものを活用して、需要に応えるという形を取ろうとなぜしないのかと思うのだ。
僕はその「養子でいい」という諦めた、仕方ないねって感じの言い方もあんまり好まないが、自分たちの間に“賜物を授かる”事ができないのであるなら、他の人からの賜物を授かるという選択肢を選んでも良いかと思うわけなのよ。

養子と聞くと、ある程度知恵を持つくらいに育ったこどもを養子にするというイメージがあるかもしれないが、そんなこともないはずである。赤ちゃんの頃から養子として迎えることは可能だろう。
望まない妊娠をする人もいるだろうし、生まれてくるこどもの親御さんにそもそも育てられる能力が無いと判断したのであれば生まれてすぐにそういった施設に預ける事があるからである。

望まれなかった命とか生まれてくるはずではなかった「自分」、なんてこどもに思わせたくないじゃない。
せめて望んでいた家庭のもとへと届けられ、育てられて欲しいと思う。
僕にもしもこどもができて養子に出す選択をするのであれば、望ましい誰もが憧れるような家庭で育って欲しいと思う。

望んでいるか否かという話をすると、精子提供はこどもを望んでいることになるんじゃないか、生まれてきたこどもは望まれた命だとなるが、結局は自分のこどもじゃなくても愛せるのであるなら自分たちの欲のままにこどもを授かろうと合法的な措置をせず、需要に応えるという形で誰かの幸せを共有できはしないかと思ったという話である。

そこに価値を感じないのであるなら、そもそもこどもとはいったい誰のための人で、どういった理由で育てられるのだろうか?

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