雪と膨張

#夜衣満月

今日が雪だってことで大昔に書いた物を思い出したので投稿します。自分ではあんま好きじゃないです。もっと明るく爽やかな作風が理想なので習作フォルダで供養されるのが御誂え向きの作品なのです。合掌〜

 
 いつぶりかに立つ玄関先は変わっておらず、唯一荒木から鈴木に一文字だけ据え換わった表札を横目に男と会った。男は背の高さと比例するように腰の低い態度の、しかしそれが決して嫌味にならない雰囲気をたたえた柳のような青年だった。自分より五つほど若くみえる。
 助けていただけませんか。普段は落ち着いた話し方なのだろうと推測させる、独特の声質を持った男から電話があったのは、まだ昨夜のことだった。すみません、自己紹介もまだで。私は鈴木と申します。荒木さんですか。
 卒業してすぐに結婚した妻とはたった二年で別れてしまったのだった。できちゃった婚、なんて縁のない言葉だと無視してきたのに、友人たちの誰より早くそれが身に降りかかってきたのは自分だった。判明して半年後には届けが出されて式も挙げられていて、いや、我がことながら考える暇もなく、というそれら全ては言い訳で、つくづく嫌になる。その再婚相手の苗字が、鈴木。
 それでも責任は取ろうと決めて臨んだのは確かだったのに。
 荒木さん? 話しかけられて思考をやめる。はい、私です。ああ、来てくださってありがとうございます。いえ。でも鈴木さん、妻が緊急事態ってどういうことでしょう。電話口でいくら緊急と呼び出されても何もわからないじゃないですか。すみません荒木さん。見ていただいた方が早い。あと。もう、あなたの妻じゃありません。
 黙り込んだ内心を悟られないよう、同意を示す笑みを浮かべてみせた自分を見やることもせずに鈴木が玄関扉を開ける。無表情の鈴木。扉によってぎゅうぎゅうに押し詰められていた居住空間の空気が、よく効いた暖房と空気清浄機のなせる技として、こちらを誘うよう流れ出し包みこむ。二年間よく見慣れた入り口の間取りと、そして、奥からは軋む音が聞こえる。二度と蘇らせたくない記憶が想起する。
 呻き声、うずくまる背、少し抑えめに調整されたトイレの白熱灯。蝋燭のように淡く、その狭い部屋を照らすたった一つの光源。妻の細い白い指先がさらに透明なほど色を失い、それが強く掴み、揺さぶるために軋み音をあげるトイレの手すり。血流がめまぐるしく前頭葉のあたりを駆け巡り、目を見開くが、何も見えないような感覚。部屋のすべての影が揺らめいているように錯覚する。照明に、この時ばかりはもっと明るくあってくれと思った。救急車を。早く。
 よく空調の効いた清潔で淀みのない空気は、むしろその裏にある淀みそのものを浮き立たせてしまう。病院を訪れたものが、その真白い壁や消毒液のにおいによって、清浄な空間にに漂う死のかおりを思い知るように。扉から流れ出た住居の皮膚感覚は、まさにそうした類のものだった。あの時と同じ音と空気。それは異様だ。あの時と同じことは二度と繰り返してはいけない。自分と彼女の間だけにあったそれを、鈴木は知らないだろうけど。知らないだろうが、だから? 知らない方がいい。でも、では、これはなんだろう。何が起きているというのだろう。
 信じられないでしょう。部屋へ導いて、鈴木は当惑した顔をこちらへ向けた。居間のクリームがかったソファの上へ懐かしい顔が仰向けになっている。でもそれは銀の鱗に覆われていた。変わらず細く長い指先はよく見れば鱗によって隣どおし癒着し、指をそろえたまま開閉するだけの動きしかできなくなっている。その手が、ソファの背を叩いてみたり、手当たり次第届く範囲のものを握りしめては放り出してみたり、それに疲れぐったりと床へ落としてみたりする。それらの手や腕の動きの合間には、時折体勢を変え、身をよじり、「え」と「あ」の中間のような声を胸から絞り出す。
 子供は? 問うと鈴木は、は? と素っ頓狂な声を上げた。妊娠してるのかって。いや、していない。はずだ。ならいい。ならいいけれど、では、なぜ自分をここへ呼んだのか。自分がここへ訪れて何ができるというのだろう。答えてくれ、鈴木。
 あなたは、認めたくないけれど、彼女の元配偶者でしょう。私はこんな状態になった彼女を初めてみたんだ。症状が症状なだけに、医者へ頼るわけにもいかない。親類を呼ぼうと思ったが、彼女が嫌がった。近い人にみられたら二度と会えないと。だから、もしかしたら対処法を知っているかもしれない、あなたしかいなかった。
 ソファーから声があがる。どう、して、来たの、荒木。ひゅうひゅうとした息交じりの問いかけを受ける。苦悶の表情をしている銀の顔。もう、何もかも、を、なかった、ように、したかったのにどうして来たの。どうして思い出させるの。
 声は喋るに連れ大きくなり、明瞭になった。語気が強まる。はじめの途切れ途切れの話ぶりは、喋るのもやっとだったわけではなく、感情的にならないよう声を抑えようとした結果だったのだと知る。
 「来たかったわけじゃないさ」
 もっと、優しいとは言わない、違う言葉を第一声としてはかけたかった。制御できない棘のかたまり。絡まったいばらのようなものを自分も口から吐く。
 なら、余計くんな。私のことなんて放っておいて。もう二度と会いたくなかったのにのうのうと。どんな顔して。ふざけないで。
 今度は逆に弱々しくなっていく罵り。罵りながら混じる嗚咽。彼女が言葉を吐くたび銀は変容し彼女を覆い尽くす。拡大した銀は皮膚だけでなく、だんだんと目や唇まで覆っていく。すでに覆われ尽くした身体中の部分は、今度は膨張して、彼女の形ごと飲み込もうとする。
 感情のまま紡がれる言葉たちはまるでメロディーのようだった。強くなったり弱くなったりのメロディーを聞きつつ、彼女を助けるにはどうすれば良いのだろうと考えるが見当もつかない。膨らみ丸くなっていく胴体と美しい鱗は人魚を連想させる。
 ちゃんと聞け! メロディーをぶっつりと叩き斬る叫び声とともに、そこにあった生卵を彼女はこちらへ投げつけた。べっとりとした黄身。顔と、服を流れ落ちる。
 私が流産した時もそれどころか結婚する時もお前はいつもそうだった。大事なことはすべて、何を話しても聞いていなくて、無抵抗ののれんみたいに私の言葉をけしてしまうだけだった。どうして私と付き合ったの、どうして私に子供を産ませようとしたの、どうして結婚したの。私と、私の子供を受け止めようとしてくれたのではないの。結婚てそういうことでしょ。それなのに、その片方が死んでしまったら、その後は。ねえ。
 一言、一言、発するたんびに、今度は彼女の銀色が失せていった。代わりに自分の、腕や、足から先の感覚がなくなった。みてみれば、自分の体は、一瞬のうちに銀色になり、硬直していた。
 横へ立つ鈴木が見下ろしてくる。やめてくれ。ただ全てを考えるだけの時間がなかったんだ。どうすればよかったというのか。
 今度は、彼女を救ってあげられましたね、荒木さん。安心したように微笑む鈴木はまるで悪魔のようだった。この銀の正体はおそらく無意味さだった。そして他にこの銀を押しつける相手が僕にはいない。
 そうか。なら、いいか。彼女が銀を渡したのは、鈴木じゃなくて僕だったのだ。そう、鈴木が言う通り僕が彼女を救った。
 違うよ。鈴木は黙したままそんな荒木を冷視する。ただ原因が君だったから、君の元に銀が戻っただけ。
 荒木は銀に包まれながらミニミニになっていく。ミニミニになりながら、それは少しだけ震えている。カタカタ震えながら机より椅子より小さく縮んでいく。しかし文庫本一冊程度の高さになった時点でその震えも止まった。もう意識もないのだろう。荒木はそこへ、銀色の筒として存在した。
 銀の鱗がさっぱり消え去り気絶するように眠る彼女の髪を優しく撫で、鈴木はそこへ落ちていた筒を拾い上げた。想定よりも重さを感じる。手の中で重心が移動し中身が固形ではないことがわかった。それはよくあるアルミ缶で、プルトップがついていた。
 ぷしゅー。何を思ったか鈴木はそれをおもむろにあけ、口付ける。おそらく以前荒木だったもの、鈴木の愛する彼女の一部分だったものへ。薬のような味と強烈な炭酸の、灼けるようでいて気持ちのよい刺激を受ける。学生の頃よく飲んだ味に似ていた。外へ雪が降りだし、家全体が銀世界に包まれる。

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