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掌編小説【闇の中】

お題「猿人」

「闇の中」

ヒロさんと出会ったのは「みんなの家」だ。そこで働いている友人に「ヒマなら手伝ってくれよ」と誘われて行った。仕事を辞めてブラブラしていた僕を見かねたのだろう。あまり気乗りはしなかったが、ちょっとした雑用と見守りだけでいい、バイト代も出すと言われたので行ってみた。「みんなの家」では知的障がいや何らかの理由で外で働けない人たちが絵を描いたりオブジェを作ったりしていた。

「ヒロさん」は初日から僕が見守りをすることになった四十代の男性だ。癲癇の発作を起こすことがあるということだったが、さりげなく近くにいて様子を見ている程度でよかった。
「ヒロさん」は施設に着くと自分の机の前に座り、ナイフで鉛筆を削る。スケッチ用6Bの平たい極太の鉛筆だ。三十分ほどかけてきっちり五本削ると机の端に並べる。それからおもむろに古びたトートバックから大きなスケッチブックを取り出して広げる。
そこに広がるのは漆黒の闇だ。
初めて見た時は息をのんだ。
彼は夕方まで、スケッチブックを延々と塗りつぶし続ける。
僕は惹きつけられた。彼に対してか、描かれているものに対してなのかはわからなかったけれど毎日見ていて飽きなかった。話しかけてもいいものかどうか迷ったが、無視されてもあたりまえだから気にするなと言われたので、一週間ほど経ってから僕はようやくヒロさんに声をかけてみた。
「そこになにがあるんですか?」
ヒロさんは無視した。聞き方が変だったかもしれない。でもそう聞きたかったのだ。僕は少し残念だったがヒロさんの傍に座り続けた。彼はスケッチブックから目を離さずにグイグイと塗り続けている。
十五分ほどしてからヒロさんはふと手を止めてつぶやいた。
「えん、じん」
その言葉は空中にぽつんと浮かんだ。僕ははっとしてそれをつかまえた。答えをくれたのだ。
「えんじんって…、猿のヒト?」
「そう」
ヒロさんは今度はすぐに答えてくれた。
僕はそれ以上は聞かなかった。彼もそれ以上はなにも言わなかった。「えんじん」は僕の心に沁み込み、闇の中に溶け込んでいった。

その夜、夢を見た。漆黒の闇の中に迷い込んだ僕が途方に暮れている。どこに行ったらいいのかわからない。その時、闇の中でうごめくものがあった。「猿人だ」と思った。たくさんの猿人たちが闇の中で僕を取り囲み動き回っている。踊っているようにも見える。猿人の一人が僕の手を引っ張った。ダンスに誘うような優しい触れ方だった。
引かれるままついていこうとした時、目が覚めた。
左手には猿人の手の感触がリアルに残っていた。毛むくじゃらで硬く、温かい…。いやな感じはなく、むしろ懐かしいような寂しさがあった。

「僕、猿人に会いましたよ」僕はその日、ヒロさんに報告した。ヒロさんはピクリとして僕の方をチラッと見た。唇がかすかにゆがみ、ニヤリと笑ったように見えた。
その日もずっと彼はスケッチブックを塗り続けていた。夕方になってそろそろ帰る時間が近づいた時、彼は僕にスケッチブックを差し出した。彼の方から見せてくれるのは初めてだ。僕は真っ黒に塗りつぶされて艶々と光る紙を見つめた。窓から入る西日が反射して金属板のようだ。僕は目を凝らした。
するとそこにいた。
猿人たちが重なりあうようにしてうごめいている。闇の奥の奥から、僕を誘うように手を伸ばしてくる。僕がその手を取ろうと闇に触れかけた時、ヒロさんが僕の手首を掴んだ。僕はハッとした。
「だめ。これは、ぼくの」
彼はそう言うと、スケッチブックを閉じて帰ってしまった。僕は彼の闇に圧倒されたまま、その場に立ち尽くしていた。手首に残るヒロさんの手の感触は、柔らかく冷たかった。全身に鳥肌が立っていた。

僕はその日の帰り、スケッチブックと鉛筆を買った。
「みんなの家」にはそれ以来行っていない。あれ以来夢の中にも猿人は出てこない。僕は外に出なければとかすかには思いながらも今日もスケッチブックを塗りつぶし続けている。
闇の中で猿人が僕を待っている。でも僕はまだそこにたどり着くことができない。

おわり (2021/8 作)

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