一休さんの逸話

有名なはなしだと
この橋わたるべからず”とか
屏風の虎”のはなしとかあると思うのだけれど

考えさせられる逸話があった
今回はそのおはなし

表面的に言えばとんちかもしれないけれど
深く考えられるはなしです

親死ぬ 子死ぬ 孫死ぬ

これは、一休さんの元に孫が生まれたからめでたい一句を読んで欲しい
という要望に応えて書いたもの

この一句を読んでもらったひとは
そりゃ怒ったらしい

たしかにぼくも一瞬同じ気持ちになる
産まれてめでたいときに死ぬことばかり言われたら

でも、もしこうだったら
「孫死ぬ 子死ぬ 親死ぬ」

理想のようにはいかない

理想通りにいかない
だからぼくたちには四苦八苦がある

でも、起こってしまったことは変えられない
少しの間悩んだり、後悔したりするとは思うけれど
受けいれるしかないんだ

ぼくも長年勤めた会社を辞めるとき
理想はしっかりと辞表を書いて辞めることだった
後腐れなく、そして笑顔でつぎにいけるように

でも現実はちがった
鬱の状態で車の運転をして
単独事故をおこした

しかも家族を乗せて

車は大破したけれど、だれひとりケガはなかった
もしケガがあったら
もしだれかを巻き込んでいたら
もっと現実から逃避してしまったかもしれない

そして、まさかじぶんが事故を起こすなんて思ってもいなかった

これが理想と現実だ
いつまでも理想を追いかけても、現実は目の前にやってくる
今を生きるっていうのも、理想ばかりじゃなく目の前のことを受け止めて生きることなのかもしれないな

スピリチュアルな世界では

スピのことも勉強しているのだけれど

とてつもなく長く次元の違う世界
宇宙の理のなか

魂としてだれを母親にしようとしているのか
どんなことを人間になって経験しようとしているのかを決めている
そしてそれを最終判断する神さまがいる

なかには、幼いときに死ぬ経験をしようと思って生まれてくる命もある

まあこちらとしては、ふざけんなって思うのだけれど
そういう経験をしようと地球にやってきているのだ

ぼくがいま生きているのも
母親と父親のもとでなにかを経験するために生まれ
いまもなにかを経験するために生きている
そして経験値を積んだら死ぬ

んでまた、なにかを経験するために生まれる
ただそれだけなんだ

だからじぶんが楽しいことをやっていい
こころがやりたいことやっていい
だれだってそうなんだ

仏教では

つぎに仏教ではどうなのかというと

基本は”因果の理”
どんな結果にも原因がある

たとえば、お金がないと言っているひとは
コンビニで買い物したり、自販機を使っているからとか

恋人との別れも
小さなことの積み重ねによって別れることになったとか

それは現世というくくりだけではないので
現世で苦しい思いをしているひとは
過去世でだれかを苦しませていたのかもしれない

そんなふうに仏教では言われている

ぼくの事故だって因果の理だ
結果は単独事故

原因は、
鬱になるまで働きつづけたこと
相談することができなかったこと
車の運転を過信していたこと

などなど、いくらでもある

現実を受けとめ、どう考える

だからぼくは現実を受けとめるために
いろいろな視点で物ごとを見るようにしている

どんなこともラッキーだと思う
どんなこともなにかを伝えるため、経験するために起きていることなのだから、目の前に起きてくれてありがとう
ラッキーだなって

死ぬ間際まで、むしろ死ぬことすらラッキーだと思えるかもしれない
だって、苦しみから解放されると考えることだってできるのだから

病気になれば、健康でいられたときを思い出す
貧乏になれば、いままでいかに裕福だったかを考えられる
食べものがなければ、より食べものに感謝できる

起こってしまったできごとは受けとめるしかない
なら少しでもラッキーだと思えるように考えかたを変えていくしか
この苦しみだらけの世で生きることは難しいと考えている

ぼくのなかで最高なことはやっぱり
あなたの笑顔を見ることだ

笑顔ってきっと
仏教でいえば阿弥陀如来
スピリチュアルでいえば天使や神さま

授けてくれた最高の贈り物であり
笑顔でいられるように、慈悲のこころで守ってくれているのだろうな

ありがたい、ありがとう

いっつも運がいいきらっくのながながとしたおはなしでした
ありがとうございます


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