見出し画像

誰がためのnote朗読?

note朗読が75作品を突破しました。ありがたいことです。
この数字、自分ひとりでは到底達成することができません。これもひとえに興味を持ってくれた人々のおかげですね。

最初は「ボイスサンプル」の一環として始めた朗読企画ですが、今では「物書きナレーター・虹倉きり」の名刺代わりとして在り続けています。
ボイスサンプルの役割をYoutubeに委ねた今、note朗読は誰のために存在しているのか考えてみました。

今思い返すと、最初は「本当にリクエストが来るだろうか?」と半信半疑でした。ですが、当時入っていた「noteを楽しむ会」のアシストもあり、企画は大盛況。類似企画も出てきました。

note朗読をやってきて気づいたことがあります。
それは「作品が別の形で生まれ変わる姿を体験できる」ということです。
音声コンテンツ故どうしても聴覚的になってしまうわけですが、フィルターを通して自分の作品を触れる機会って、何かしらアクションを起こさない限り滅多に体験できないことなんですよね。

リクエストを投げてくれた方々は皆さん口を揃えて「文字が動いている」「小説に命が宿った」とおっしゃってくださいます。
執筆する楽しさ、黙読する楽しさもまた一興ですが、もしその作品を違うベクトルで楽しみたい場合、人は必ずといっていいほど刺激を求めます。
例えば、作品に合いそうなBGMをかけながら読んでみる。それがマッチすると一気に自分の作品が花開いたように感じますよね。
しかし、朗読となるとどうでしょう?これまで頭の中でしか聞こえなかった声が物体化して「動いている」ことを確認できますよね。何よりも、自分が書いた文章が別のコンテンツとして生まれ変わる姿は圧巻です。
これがリクエスト作者さんたちが言うところの「感動」と「鳥肌」につながっているのだと思いました。

結局、note朗読は誰のためにあるのか?

それは「読み手(朗読者)」「聴き手(聴いてくれる人)」「書き手(作者)」のためにあります。
note朗読は「読み手と書き手、聴き手の相互コミュニケーションツール」です。朗読は読解力と解釈力が物を言います。偉そうに書いている私も、この二つに関しては発展途上です。

仮に読解力と解釈力がカンストしていたとしても、読み手・書き手・聴き手が感じたことに同じものはありません。そこからまた別の思考が生まれるもよし、解釈の深みにハマるのもよし、別の解釈で朗読してみるのもよし…早い話が、良い形で作品が循環してくれればそれで良いのです。
私は私で読みの引き出しとボキャブラリーを増やします。リクエストした方は朗読というフィルターをどう使うのか、聴き手の方は朗読音声を聴いて何を思うのか…note朗読の楽しみ方は十人十色ですし、それぞれのやり方で楽しんでもらえれば良いわけです。

だからといって、企画のダイレクトマーケティングはしますが「リクエストください!」「読ませてください!」とお願いするわけではないですよ。
リクエストが無くなったらそれはそれでひとつの答えですし、もしかしたら私が思うほどnote朗読のニーズがないかもしれませんからね。

私の朗読は誰かの役に立っていますか?
自分では役に立っていると思います。

この記事が参加している募集

noteでよかったこと

虹倉家の家計を支えてくれる心優しい方を募集しています。 文章と朗読で最大限の恩返しをさせていただきます。