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合理的配慮、なんかちょっと意味履き違えてない?

車椅子ユーザーを巡った映画館の対応――いや、映画館の対応に物申した車いすユーザーの件とも呼べばいいのでしょうか?
いずれにしろ炎上してしまったあのニュースについて、思ったことを書きます。

最近見聞きするようになった「合理的配慮」という言葉。
Wikipediaには次のように書かれています。

合理的配慮とは、障害者から何らかの助けを求める意思の表明があった場合、過度な負担になり過ぎない範囲で、社会的障壁を取り除くために必要な便宜のことである。

合理的配慮(Wikipedia)より一部抜粋 ※ふりがな・英語は省略しています

簡単にいうと「障害者からヘルプがあった場合は自分ができる範囲でその人を助けようね」ってことです。
今回の車椅子ユーザーの方が主張したことも合理的配慮に伴うものでしたが、どうも違和感が拭えないなってのが正直な感想です。というのも、正解がなくて非常にセンシティブな問題だからこそ、ほんの一意見で悪者になれる性質を孕んでいるからです。
ちなみにこれから書くことは、悪者にもなれば普通の人にもなれる意見です。ご留意ください。

合意的配慮の正当性

そもそも「配慮」というのはどういうことなのか?「バリアフリー」とどこが違うのか?だと思うんです。
ニュースと該当ツイを読む限り、劇場内はバリアフリーが不完全なままで、その職員さんは手伝いできる余裕がなかったのではないかと推察します。
確かに見ている側からすれば「今までやってくれたのに!」と悔しい気持ちになりますよね。しかし、それを当たり前だと考えるのはNG。大きな勘違いをしています。

誰のためのサービスなのか

現代に求められるサービスは「誰でも公平に受けられる」ことにあります。今回のケースでは「誰でも公平に映画を楽しむ」。その方はただ単に映画を楽しもうとしていたわけですから、当然その権利を持ち合わせています。
しかし、映画館の職員全員が介助できるかどうかは分かりません。分からなくともどうすれば良いか聞くことはできるので、これまでしてくださった方にはそのような心遣いがあったのでしょう。では介助自体は業務に入るのかどうかと問われれば――私の答えはノーです。

些細なことはバリアフリーで解決できるのでは?

映画館というのは通路が限られているので、もしものときに何かあれば人がごった返してしまうリスクが生じます。例えば災害時なんかは関係者指導の元に行動するのが鉄則ですが――そこに車椅子ユーザーが1人いた場合、出入口までの距離が長くなればなるほど全員の避難時間が伸びます。
「いやいや、今回のケースは対応に傷ついたって話でしょ」とお思いでしょうが、災害はいつどこで起きるか分かりませんし下手するとパニック映画よりもパニックするものです。ましてや階段では車椅子にぶつかって転倒する人だって現れるかもしれませんし、下手すると当の本人でさえも怪我するリスクは十分にあります。
そういう意味では段差をなくしてゆるやかな坂にするなどのバリアフリー環境を構築したほうがいいと考えますが、設計面では素人なのでそのあたりは専門家の意見を聞いてください。

その配慮要求、マウントになっていませんか?

今回の件で一番引っかかったのは「いつもはお手伝いをしてくれる」という文言です。
すっごく性格悪い見方ですが、これって自分の障害を利用して優位に立とうとしている図でもあるんですよね。

パシリタイプのいじめに似た構図

映画が見たいために映画館へ行ったは良いものの、人の手に頼らなければ席につくことはできません。車椅子に乗っているわけですから、誰が見ても分かります。
ここでポイントになってくるのが「他人の心遣い」。残念ながら日本は自分の人生に精一杯な人が多すぎるので他人に気遣う余裕は少ないといってもいいです。その中で助けの手を差し伸べる方々は本当に素晴らしいと私は思います。
しかしそれよりも残念なのは、せっかくの心遣いを自分の欲求のために荒遣いしようとする方々がいることです。いわゆる「障害者様」ですね。前後しましたが、サービスの本懐を遂げるには職員にそういった対応を研修させたほうが一番良いと考えます。
ところが、障害者様達は自らの欲望を出汁に他人を強制させることを「合理的配慮」だと認識しているように思います。これって本当に言葉どおりなのでしょうか?

もう一度「合理的配慮」の意味を見てみましょう

<合理的配慮とは>
障害者からヘルプがあった場合は自分ができる範囲でその人を助けること

虹倉的解釈。出典元:Wikipedia

障害者様で多いのは「自分は見るからにそうだから助けるのが当たり前でしょ」と悲劇のヒロインアピールをするパターンです。似たような事例として「不快だから今すぐ対応しろ」もあります。
当たり前というのは、今回でいう段差の上り下り問題がそうです。繰り返しになりますが、その方がこれまで気持ちよく映画館を利用することができたのは職員の心遣いが大きいです。しかし勘違いしてはいけないのが、その心遣いに賃金は発生しないということ――つまり職員さんは無益の奉仕をしているといっても過言ではないのです。
念の為書いておきますが、人を助けること自体に利益もクソもありません。
ただし欲望は利益と似ているところがあります。一旦満たされてしまうと次から次へと欲望が出てきてしまうのは承認欲求かもしれませんし、本当に困っているのかもしれません。ですがその人の本心を読み取ることは健常者でも障害者でも不可能ですし、言うにしても余計に事が拗れるだけだと考えます。面倒くせー!!

合理的配慮で一番大切なこと

日本ケアフィット共育機構の解説記事によると「合理的配慮は健常者・障害者どちらかの都合が優先されるのではなく、双方の建設的な対話によって成り立つ」と書かれています。

対話、できていますか?

実は私も過去に似たような事を経験しました。詳細は割愛しますが、どうやら一回のやり取りで全てを把握・対応できると思っていたらしいのです。
「対話」とは、今やるべきことのすり合わせと双方の考え方の共有だと私は考えています。見るからに分かることだとしても、相手が求める先のことを見据えるのはなかなか難しいことですし、話をしていても理解に追いつかなかいこともあります。言葉の履き違いが原因で、全く別の意味で捉えられることも少なくありません。

その上で、私が障害者の皆さんに言いたいこと

合理的配慮を行うのは社会にとって絶対必要です。
しかし自分優位であーしろこーしろと注文をつけるのは本当に「合理的配慮」なのでしょうか?
あなたが合理的配慮を求めるとき、きちんと相手の話を聞くようにしていますか?まさか相手が応じるのを当たり前と思っていませんよね?

ついでに、それ以外の皆さんへ

急なお願いをされてびっくりすると思います。
何をどうすれば良いのか分からなくなって時間が過ぎていくことも考えられるでしょう。
他人を助ける義理もなければ時間も惜しく感じますよね。
ですが目の前にいる人は、今助けを求めているのです。
自分ができる範囲でいいので、ちょっとだけ手を貸してみませんか?

おわりに

書こうと思ったのは、ナレーター仲間のおーさまメロンさんの記事が発端です。

今回の炎上について「当事者も健常者も足を引っ張り合ってギスギスし合っている」と仰っていました。
多分その原因は、私を含めてみんな対話下手かつ理解に追いついていないからなのかもしれません。理解しようにも声の大きい少数派のわがままのせいであまり良く思えないのが本音だったりします。

本当は、いろんなことを知りたいんですけどね。

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