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帰省3日目、あれやこれや

一昨日のこと。

中学からの大好きな友人と電話をしていた。仕事や人生のちょっとした相談話をしたあと、なんとなしにおしゃべりしていた。生活費や家計簿の話の流れで、「ちょっとストレスが溜まったり、疲れた日に小さな贅沢としてお刺身を買って食べたりする」という彼女の言葉がやけにグッときた。


一緒に暮らしたことはないけれど、その人の日々の一部が垣間見えたようなとき、何とも言えない親しみのような感情が湧き上がってくるのかもしれない。


朝6:30、中央線の東小金井駅から。

久しぶりの実家へ帰ってきたのが同じく一昨日の朝。

昼食後に洗い物をして食器をしまおうとしたとき、直近のひと月半を過ごした家の配置に自然と手が伸びていて、「あ、違うや」となる。きちんと生活をしていたんだという実感と共に、6週間という月日の存在が目の前に現れたような瞬間だった。


ひと月半のあいだ、たくさんのものを作った。


海士でにいる間に読んだアリス・ウォータースさんの『スローフード宣言』。
単に食生活や食文化の話をしているのではなく、ファストフード/スローフード的価値観という表現を用いて、一回一回の食事や買い物が知らず知らずのうちに私たちの人生全体に及ぼしうる影響について問いかけてくる、という印象を受けた。

この本は自分で買おうと思っていたけど、僕が欲しそうにしているのを見たある人が「これ、あげるよ」とプレゼントしてくれた。こないだ別の人がそれいいな~と言っていたので、僕は新しく一冊買ってその人にあげることにしている。




ここ数年でよく耳にするようになった「エシカル」だとか、「オーガニック」だとか、そういう言葉でくくられるようなカテゴリーを大事にすることともまた違って、自分自身が食べたり使ったりしていて本当の意味で心地よいもの、気持ちがよいもの、喜びを感じるものを選んでいく。簡単じゃないけど、すごくシンプルなことだと思っている。


簡単じゃないというのは、「心地よさ」や「喜び」というのがそんなに単純じゃないから。レンジでチンするだけ、みたいに手間がかからない便利なものにはやっぱりある種の心地よさがあるし、一方で出汁をちゃんと自分でとった鍋とか、自家製のキムチとか、そういうちょっと手間暇がかかっているものでしか味わえない充足感は確実に存在していて。


前者のそれを否定したいとはまったくなく、電子レンジも電気ケトルもあっていいし、あるなら使いたい。でも、後者の感覚や文化が自分や社会からなくなっていくことはどうにかして避けられたらいいな、とは思っている。倫理観や道徳からではなく、個人的なこだわりや美意識として。


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こんなようなことを考えていて思い出したのが、10月半ば頃に書いていたメモだった。

言葉(自然言語)=世界を切り分けていくもの(=似たものをカテゴライズすることによって単純化する)

としたとき、世界というものをそのまま感じてみたり、捉えていきたい自分にとってはちょっと相性が悪いのか?南米旅の話とか、伝えたいことがうまく言葉にできていない場面が多く、それも関係あるのかも。

じゃあ他にどんなコミュニケーション手段があったっけ?自分に向いているのはなんだろう?と考える。「暮らし方」や「家」はひとつ表現の手段になりうるのかも。旅していていろんな家に泊まらせてもらう中で、生活のあらゆる場面にその人の人柄や価値観がにじみ出るなあと思っていて、ちょっとそのへんアンテナ立てておきたい。

生活は、あなたを隠さない。

あっという間に年末年始の季節がきた。
身体を休めたり、旧知の友人たちとの時間を楽しんだり、みんなが心の温まるひと時を過ごせますように。





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