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「自分の言葉で話しなさい」2024年2月19日の日記

62-1

・「今すぐNoteに書いて自分の心の中を整理整頓したい!」と思うようなことがたくさん起こった。凄く健康な時間の使い方だ。

62-2

・スーパーに行ったら、これまでのベストを更新するくらい可愛い発音のフィンランド語と出会った。
これを読んでいる方、綿棒はフィンランド語でPumpulipuikko(プンプリプイッコ)というそうです。子どもが怒った時みたいだ。

・他にも、今までわたしが見つけた可愛い単語をいくつか紹介する。
Lumi(ルミ/雪)
Kana(カナ/鶏肉)
Sinappi(シナッピ/マスタード)
Ketsuppi(ケツッピ/ケチャップ)
Muumipeikko(ムーミペイッコ/ムーミントロール)
Kukka(クッカ/花)               etc…

62-3

・スーパーといえば、最近明らかに同じ値段で販売されているものの内容量が減ってきていて、物価高の波をひしひしと感じる。

・金銭感覚はとうに狂っていて、日本に戻った暁にはケチっていた調味料もユーロに換算して何でも買ってしまう気がする。

・ここで生活していると、日常生活の端々で「日本って配慮が行き届いていたんだなぁ」と感じることがある。
部屋を掃除するコロコロの取っ手が右利きしか対応していなかったり、筆箱に収納できるサイズの小型ハサミが存在していなかったり、バターの箱にナイフが入る隙間がなかったり。

・思い返してみると、当初は「ある」ことばかり探していたフィンランドでの生活も、最近では「ない」ことをよく感じるようになってきた。
帰国した時、わたしは日本に何が「あり」、「ない」と思うのだろうか。

62-4

・ルームメイトと、Netflixで配信中の映画「Isn’t It Romantic(ロマンティックじゃない?」を見た。

・外見ぽっちゃりの、ラブコメ映画が嫌いな女性が王道ラブコメの世界に迷い込み、本当の愛を発見するという物語で、話の構成も演出方法もディズニーの「魔法にかけられて」と共通する部分があった。
ネタバレになってしまうので控えるが、最終的に王道に戻って来るのではなくて、この映画なりのメッセージがきちんと伝わってきて良かった。

・劇中歌として用いられていた「I Wanna Dance With Somebody」が、2週間ほど前にクラブに行った時に流れていた曲で「こんな曲の出会い方もあるんだ!」と気づけて嬉しかった。
11月中旬に「これまで目を逸らし続けてきたものは本当は自分がやりたかったことだから、真正面から向き合おう」と改心してから(詳しくは11月12日の日記を参照)、洋楽のプレイリストは70曲を超え、カフェや留学生が集まるパーティーで「あ、この曲聴いたことある」と感じることが増えてきた。

・髪をセットしながら日本のニュースを視聴して、通学途中は洋楽を聴く。
半身浴のように日本とここでの生活の日常が混ざり合って、溶けていく。

62-5

・留学前期にお世話になっていた現地の友人から、クリスマスプレゼントとしてムーミンの絵でフィンランド語を楽しく学べる本を貰ったのだが、本が中々高価ということもあり、お礼を渡せていなかった。

・そこで最近、母に2回目の仕送りを頼んでいたことを思い出し、日本からの荷物と一緒に「All About JAPAN」という、いかにも日本らしい文化が分かりやすく描かれた絵本を送ってもらった。

・ルームメイトは最近わたしの影響でDuolingoの日本語コースを追加してくれたらしく、せっかくなので友人に渡す前に彼女にも絵本を見てもらいながら雑談した。

・最も印象的だったのは年中行事に関するページで、彼女の出身であるフランスと比較すると日本の行事の頻度(一か月に代表的な行事が一つはある)はかなり高いらしい。
4月はひな祭り、5月は子どもの日、11月は七五三など、子どもが主役の行事がフランスにはあまり存在しないらしく、それも含めて印象的だったそう。

・満員電車の様子やおにぎりはわたしの話やアニメ、マンガ文化を通じて見たことがあったそうだが、干支や俳句の概念は初めて知ったという。
「あなたは辰年生まれだよ」
「なんでそんなことが分かるの?何を中心に順番が回っているの?」
「1周が12年あって(かくかくしかじか…)」
みたいなやり取りがあって面白かった。

・個人的に、最も説明に苦労した箇所は数字の読み方で、十を超えた数字の「書き方」を教えるまではスムーズだったけれど、二十(はたち)などの変な読み方や音読み訓読みの概念を理解してもらうには至らず、自分の指導力&英語力不足を痛感した。

・はるばる日本から渡ってきたのだから、友人に渡す前にお世話になっているチューターや来月日本観光をするおばあちゃんにも読んでもらってから渡そうと思う。今から彼女たちの感想を聞くのが楽しみだ。

62-6

・読書といえば、ちょうど1か月前から読み始めた初の長編洋書「Memory of Water」を、ついに今日読破した。
英字がびっしり詰まった、圧巻の250ページである。自分が誇らしい。

・簡単にあらすじを説明すると、地球温暖化の影響を受け、水の供給が軍によって厳しい制限を受ける世界で生きる、女性の茶人見習いNoriaの物語。
彼女は親友ががらくたの山から見つけ出したレコードテープをきっかけに、茶道に身を捧げる自身の生き方について考えるようになる。

・各章キリのいいところまで読み進め、60%くらいの理解度をGoogle翻訳にかけることで85%まで上げ、重要な部分や印象に残った台詞はノートに書き起こすという手法を最後のページまで続けた。
読み終えるまでの時間は計12時間ほどかかってしまったけれど、最終章は続きが気になって約10ページを一気に読んだり、読み方の緩急のつけ方が徐々に分かってきて「読書すること」自体に楽しさを見いだせた。

・英語で読書、中々新鮮だ。
まず、冒頭部分は探検をしているような気分になる。
パラレルワールドという設定に加え、フィンランドの常識が不足している自分にとって、オリジナルの要素かフィンランドでの常識をもじったものなのか、非常に区別がつきづらいからだ。

・中でも苦戦したのは情景描写。
本書は特に水を使ったたとえが多く、登場人物の心情の読み取りや不穏な予兆を伝える描写の取り違えが頻繁に発生した。

・それでも、元々の読書経験からか、物語の鍵になりそうな台詞がなんとなく分かったり、今後の展開が若干予測できたおかげで、筆者が伝えたかったメッセージは大体把握できたと思う。
勿論、この話が純粋に面白かったことも大きな要因だ。

・大学の課題だからこれでおしまい、という訳ではなく、読書はこれから習慣にしようと決めた。
洋書を読んでいる自分かっこいい、という感情があることは否定できない。
それでも「英語のおかげでもっと面白い話に巡り合えるかもしれない」と想像した時の胸の奥がどくんと高鳴る感覚は、根本的な欲求と限りなく近く、「本当」だった。

62-7

・留学期間が徐々に終わりに近づく中で、誘いを断られて気まずくなるリスクを天秤にかけ、それでも「もっと話してみたい」と思える何人かに、自分から声をかけることにした。

・今日はその内の1人目に会って、結果的にとても充実した日になった。

・その人は、週に1回は会うけれど短い時間しか話せていなかった人で、何となくの雰囲気や話し方が、どこか似通う部分があると感じる人だった。

・それだけでずっと好印象が続いていて、改めてその要因を考えてみると、その人の自分の目標に対して情熱があって、かといって他人に押し付けず、恥ずかしがらずに着々と進むところに「良さ」を見出していたんだなぁと分かった。

・実際に2人で話すのは初めてだったけれど、好きなアーティストのMVがないマイナーな曲がお互いの1番お気に入りの曲だったり、自分から一歩を踏み出してみなければ分からなかった共通点が予想以上に多く、数日前の自分を少し褒めてあげたい気持ちになった。

62-8

・ぐちゃぐちゃに絡まった気持ちを書き起こすまでには、体力がいる。
それでも、書ききった後は、そのままの心でいるよりもずっと幸せなのだ。

・自分というフィルターを通した言葉には「あの時の自分って、こんなことを考えていたのか!」という新鮮な発見が詰まっているし、そのものに対して唯一無二の感想を抱ける自分を誇らしく思えるからだ。

・高校の頃の部活動の顧問はとても厳しい人だった。
1から10まで一通り指摘された覚えがあるくらい、深く関わった人でもある。けれど当時のわたしにとってはその指導に「愛」よりも「恐怖」を感じていて、その先生と話すときはいつも、どこか不安だった。

・そんな先生にまつわる最も衝撃的な思い出は「自分の言葉で話しなさい」と叱られたことだ。
残念なことに、当時のわたしの発言は全く覚えていない。ただ、先生と相対し直接話す不安感から、誰かの発言を引用してばかりいたのだろう。
とにかく、わたしは何かしらで先生の機嫌を損ね、叱られた。

・当惑とやるせなさ、恐怖と少しの怒りで、一体何が自分の言葉なのかそうではないのかが全く分からず、頭がショートしたように動かなかった。

・大学に入学してからも、高校の思い出に触れる度、頭のどこか片隅でその言葉が反響する瞬間があって、先生の真意に近づくような回答は中々思い浮かばなかった。

・なぜこの話を始めたのかというと、先生が思う「自分の言葉で話す」という言葉が意図していたのは、この日記のように一見分かりにくい結末だとしても、自分の中で整理をつけ、筋道立てて説明してほしいということだったのではないかと、ふと気づいたからだ。

・もちろん、反論したいこともある。
何が「自分の言葉」なのかを決めるのは、その言葉の聞き手(つまり先生)ではなく、それを発する自分だ。

・あの時の自分の語彙力ではこのもどかしさが上手く言葉に出来ず、何をどのように話しても「あなたの言葉ではない」と一蹴されることが怖くてたまらなくて、職員室の扉の前で立ちすくんでしまっていた。

・先生の真意は、今となっては分からない。
何年間も誰かを思い悩ませる言葉が、発した当人にとっては気にもしていないことだったという現象は、悲しいほどに普遍的だからだ。

・けれど、先週のわたしの一歩が、思いもよらぬ形で四年越しの謎を解決する手立てとなったのだから、人生とは、選択とは、数奇なものである。

・帰国した暁には、久々に母校に行ってみようかな。
そして、あの時の答え合わせをするのだ。
たとえわたしの回答が満点ではなかったとしても、その時のわたしは、きちんと先生と向き合えている気がするから。


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