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いつまでも初心者#12

「それだけやれば相当すごいんでしょうね」

 たまに50人もやれば、とんでもなく話すのが達者だったり、心の隙間と隙間を縫うような質問ができたりする、と思っている人がいる。
 けれど、実際に僕と会った人はそんなことはないとわかるだろう。

「この人はすごい人だ!」と感じるならば、それは自分が色眼鏡でその人のことを見ているか、それとも相手が自己演出してそう見せているかのどちらかでしょう。

 そして、凄そうなオーラーーすなわちある種の威圧感を放つことは、対話の場面において損でしかない。
 なぜなら、対等に接することができないのだから。相手が持ち上げようが、こちらが一歩高みに上って見下そうが、本心が言い合えなくなってしまう。
 緊張は心を閉ざしやすいから。

 それでは意味がないのだ。
 社会的に成功しているはずの人が、しばしば心に空白や不満を抱えるのは、自己演出のあまり、本音を打ち明けられない孤独ゆえだと思っている。

 僕はコミュニケーションの達人ではないからこそ、インタビューゲームをやっているのだ。回数を重ねることでそれが洗練されていくのは否定しないけれど、その程度はたかが知れている。

成功体験をするための場ではない

 歩くという行為を、人間は生きた歳月だけやってきているけれど、それが洗練されているかといえば、そうではないだろう。だから、そのための練習をする。

 モデルさんは美しく見えるように歩く。
 競歩の選手は、より速く歩く。
 忍者は足音を立てないように歩く。

 世の中にはたくさんの歩き方があり、正解と不正解に仕分けることは難しい。ただ時と場合によって、向き不向きはあるだろう。誰かから逃げ回っている時に、美しく見える歩き方をしても仕方がない。

 それと同様に、人とのコミュニケーションにも色々なアプローチがある。そしてそれは選び取っているというよりも、これまでの人生経験の中で獲得してきた関わり方をしているだけであることが多い。つまり、癖だ。

 1つのスタイルを磨いていくことと、1つしかできないのでは、まったく違う。前者は得意と不得意はあれど選択肢があるが、後者は選ぶことすらできない。
 自らの中にたくさんの引き出しがあれば、なにが起こるかわからない現実においても生きやすくなるはずだ。

 インタビューゲームは、僕にとって成功体験を積むためのものではなく、トライ&エラーのための場である。そこの認識を間違ってしまうとどうしようもなくなってしまう。
 自分の関わり方に気づき、自分にはない他者の関わり方に触れ、新しい関わり方を獲得するための練習をする。
 そのためには色々試してみる必要がある。やったことないような話し方、聴き方に挑戦すれば、当然そこには失敗する余地がある。

 だから、僕は50人以上やった今でも失敗しているし、挑戦した証である失敗を嘆いたりはしない。

 枠組みとしてやっていることは変わらない。
 けれど毎回起こっていることは違うのだ。だからわかったふりをしないで、初心者の気持ちで臨んでいる。

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