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雄弁な沈黙#9

 コミュニケーションにおいて、沈黙を怖れる人は結構多い。

 インタビューゲームをやっていても、「途中で沈黙ができちゃって」と言う人がたまにいて、それは無意識的に沈黙を避けるべきものとして捉えている証拠だ。

 僕も10代の頃は沈黙が恐ろしかった。
 なんとか言葉の隙間を埋めようと必死になって、けれどそれが上手くいかずに自己嫌悪するということの繰り返しだった。
 沈黙はチクチクと僕を苛んだ。時間が長くなればなるほどに、鋭利になり、痛みは増していく。

 けれど、今では沈黙に愛着すら感じることがある。
 言葉のないところでのやりとりは、とても雄弁で豊かだ。

沈黙が怖いのは自分のことに意識が向いているから

言葉のいちばんの幹は、
沈黙です。
言葉となって出たものは
幹についている
葉のようなもので、
いいも悪いも
その人とは関係ありません。
『吉本隆明の声と言葉。〜その講演を立ち聞きする74分〜』

 思想家の吉本隆明さんが「言葉の本質は沈黙だ」と言っている。 
 これは共感できる。

 沈黙を怖れる人というのは、結局のところ自分のことばかりに意識が向いているのだ。相手を異物として捉えているから、気まずさを感じる。
 その沈黙の時、相手はどんな表情で、どのようなことを考えているだろう?
 自らの感情から離れれば、恐怖感は薄れていくだけでなく、沈黙を避ける方法なんていくらでもあることに気づく。
 なぜなら、「この沈黙の間なにを考えていたんですか?」と問えばいいのだから。

 人間が食べたり、寝たりしなければならない以上、ずっと喋り続けることは、はなから不可能だ。無理だとわかっていることをしようとするから、苦悩が生まれる。

 話と話の間に沈黙が生まれるのではなくて、沈黙の海に時折言葉を浮かび上がってくるのだ。そう考えると気持ちが楽にならないだろうか?
 むしろ、元の状態に戻ったのだと思えば、怖さもない。

沈黙は言葉以外のものに気づかせてくれる

「バカ!」

 これは言葉だけを捉えれば、罵倒するための言葉だ。
 しかし、それを口にした人が笑顔であればふざけあっているのだし、頬を染めているならば照れているだろう。
 つまり、言葉だけではその意味を把握することはできない。

 意味は状況の中に生まれるのだ。

 言葉以外のものから実は僕らは情報や意味を捉えている。そう考えた時に、沈黙はは否応無くそうした「言葉以外のもの」に意識を向けてくれる。
 黙っている相手は、居心地が悪そうだろうか? それとも答えを探しているだろうか? 案外なにも考えていないかもしれない。

 本当は、なにも言わなくても阿吽の呼吸で、なんでもできたら素敵だ。
 ただ現実はそうもいかない。
 だから、せめて僅かな時間でも心地良い沈黙を共有できるような、時間と空間と関係性が築きたいとそう願っている。

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